この6月、精神科医の泉谷閑示さんの本を集中的に読んだ。「『普通がいい』という病」や「反教育論」、「『私』を生きるための言葉」、「仕事なんか生きがいにするな」「薬に頼らなくても『うつ』は治る」など、泉谷さんが書いた8冊を、気づくとすべて読んでいた。精神的不調を経て、生き方を大きく変えている最中にある自分にとって、どれも深く胸に響いた。
8冊から自分が受け取ったメッセージをあえて一言で言ってみると、「心は、頭より賢い」ということだ。心は、私たちが普段思っている以上に物事を深く感じ、そして率直で素直であるということ。その心を、理屈をつけたがる頭で抑えつけていると、心が我慢ならなくなり、うつという状態をもって反逆を起こすということだ。
精神的な不調は、心のストライキ
泉谷さんの考えで特におもしろく感じたのは、頭と心と身体の関係性についてだ。心と体はつながって一心同体をなしているのに対し、頭は別のものという捉え方をしている。これは泉谷さんが精神科医としてクライアントと長年対話を続けてきたことから考え出したものだそうだ。作品中、次の絵がたびたび登場する。
ポイントは、頭と心の境界にフタがついていることだ。このフタは、頭の考えによって開けたり閉めたりできる。
理性で動く頭が、心の声を聞こうとしなければ、このフタは開かない。心は心で素直に物事を感じ取って声をあげるけれど、フタが閉じているから頭には届かない。頭と心が分断された状態だ。心はある程度は我慢ができるが、頭に無視され続けていると、こらえきれなくなる。つながっている身体とタッグを組み、頭に反逆を起こすのだという。
頭と心が分断されている時には、頭では会社や学校に行かなきゃ、行くべきだと思っていても時間ギリギリまでベッドで寝ていたり、また仕事でかけないといけない電話があるのに、何時間もかけられないといった行動になってしまう。頭と心の分断が、深まっていくとメンタルを崩していく。
次の一文は、この頭と心の対立をわかりやすく表現している。
人間を一つの国家にたとえてみると、現代人の多くは「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけれども、その我慢が限界に来ると、何がしらの反乱を起こしてきます。
「『普通がいい』という病」より
たとえば、「心」がストライキを起こせば、うつ状態になりますし、暴動を起こせば躁状態や感情の爆発が起こる。
私がこの説明に共感するのは、自分がまさに昨年「心のストライキ」に苦しんでいたためだ。頭での命令が全くきかなくなった。身体も動かなくなった。過去を後悔する思いが頭から離れず、自分がこれからどう生きたいのか、まったくわからなくなった。30年以上生きて、こんなことは初めてだった。考えるのがめんどう臭いから、ひたすら眠る。起きたらスマホを適当にいじって、目が疲れたらまた眠るという、どこまでも堕落した生活を1年近く送っていた。
真っ暗闇の長いトンネルから抜け出た今、なぜそんなことが起きたのかこう考えている。自分は10代終わりの頃から「こうあるべき」という頭の中で描いた理想像のようなものがあり、「こうしたい」という心の本音を、押し殺していたのだと思う。心が素直に望んでいる「したいこと」は後回しで、世間的に「すべきこと」とやってきた。その「すべきこと」はうまくできてきたのかもしれない。ただ気づくと、自分の人生には「すべき」とか「あるべき」によってなされたことが並んでいた。こうはなりたくなった。1年弱の精神的不調は、この頭の指令に基づく生き方にはもう従えないと、心と身体があらん限りの叫びをあげて教えてくれたのだと思う。
不調を脱した先の「第二の誕生」
私は著作のなかでとても感動したことがある。苦しいうつ状態を脱し切った人の多くは「第二の誕生」とも呼べるような、生まれ変わるような変化を遂げる例が多くあるのだという。うつを、風邪のような薬を飲んで直すといった軽い症状としてではなく、そこに大事なメッセージが込められていると捉えることが大事なことのようだ。そのメッセージにこそ、自分が自分らしく生きていく大切な手がかりがあるのだと思う。それは世間の常識が押し付ける価値観とは異なるものだということ。次の一節が印象深い。
金銭・名誉・出世などへのこだわり、他人からの評判を気にする神経症性、表面的な人間関係にとらわれたり孤独を恐れたりして群れようとする傾向、無批判な組織への忠誠心、成果主義に振り回されて効率を追い求める非人間環境、等々への疑いや幻滅が次第に明瞭になって、そこから離脱したまったく別種の価値観が見出されるようになるのです。そして、生きる上で価値を置く対象が、ダイナミックに変化します。
「クスリに頼らなくても『うつ』は治る」
繰り返しになるが、うつ状態とは自分の心が発するメッセージなのだということ。このことを私自身はとても大事に思いたい。自分の経験からして、うつ状態を単なる「辛いもの」として対処療法的に薬などで目先をごまかすようにしていても、根本的な解決にはならないと思うのだ。
私は社会人になって以来、10年ほど断続的に抗不安薬を飲み続けてきた。仕事が自分に合わない合わないと思い続け、朝起きて、調子が悪いと思った時には薬を飲んで対処療法的にやり過ごしてきた。ただそれでは目先は多少は楽になったとしても、心の揺らぎは決しておさまらなかった。
心療内科にも何度も通った。合わせて10人ほどの「センセイ」と呼ばれる人に診てもらった。その「センセイ」の中には、こちらの不調の話をろくに聞かず「じゃあ、前回と同じお薬出しておきますね」という人がたくさんいたし、学生のノリのような幼い雰囲気で「いつでも適応障害の紙書きますよ」とかいう人もいた。また狭い一室に呼ばれ、「今から天との交信をします」といいながら天の声を聞けるという人と携帯で話始める異次元のセンセイもいた。
今だからこそ、そうしたセンセイ方が、いかに苦しい人を救わないトンデモセンセイだということがわかるが、辛い時にはワラをもすがる思いだ。精神的な不調が長引く人が多いのも、こうしたトンデモセンセイがはびこる現状に大きな一因があるのではないかと、実体験として私は思う。
ラクダは獅子に、そして小児に
泉谷さんの本のなかで、もうひとつ、どうしても紹介したいメッセージがある。8作の著作のほとんどに登場する、人間の真の成熟の変化を語った話だ。
人間は「ラクダ」→「獅子」→「小児」の順に成熟していくという。これは一見してもよくわからないだろうし、変に感じると思う。
常識的には、この順は逆なのではないかと思う。私たちは、子供(小児)として生まれ、そして反抗期(獅子)を経て、責任を背負った大人(ラクダ)になる。これが当たり前のように社会では思われている。
ただ、真に自分らしく生きる人はこれとは逆のプロセスをたどるのだという。この話は、哲学者ニーチェのツァラトゥストラ「三様の変化」を説明したものだ。
ラクダは従順さ、忍耐、努力、勤勉さと言ったものの象徴。例えば学生や、会社員といった感じだ。いわゆる通常の教育に従って育て上げられる人たち。従順であればあるほど「優秀」とされる。一般的で世間的な社会では、この「リッパなラクダ」になることに価値があるとみなされる。
しかしながら、ラクダは成熟の第一段階にすぎない。ラクダは与えられた責任をうまくこなしながら生きられても、決して自らが雄叫びをあげて生きようとはしない。どんなにリッパなラクダであっても、受動的な生にとどまるということだ。
ラクダがどこかで、その窮屈さや重荷を背負わされているという不自然さに感じた時こそ、獅子へと変わろうとする瞬間なのだそうだ。それはラクダであり続けることへの疑問を抱くということでもある。
獅子とは「怒りの化身」だということ。それまで自分を押さえつけていた「龍」と戦う獅子だということだ。龍というのは、例えば世間体や常識といったそれまでなんとなく信じていたものを指している。教師や親、上司、会社、マスコミ、政治家といった、なんとなくリッパそうに振る舞いながら、世の中の当たり前を押し付けてくるものといっていいと思う。
龍との戦いに勝利した獅子は、そこで変化を終えるのではなく、次に小児に変わるのだという。小児というのは「心の従うままに身を任す」といったスタンスで、創造的な遊びに没頭するのだという。
私はこの話はとても鋭いと思うし、共感する。取材で出会った人の中で、私はこの「小児」段階の人に数少ないながらも出会ったことがある。その人たちは、まさに思うがままに仕事をしていた。世間の評判など脇に置いておいて、自分が意味があると思える仕事に人生をかけていた。彼らは結果的に社会からも高い評価を受けていた。ただその評価に対しても、どこか距離を置いていた。彼ら彼女らの話の中には、世の中への強い疑問や怒りに関するエピソードが必ず入っていた。
先週末、泉谷さんが不定期に開いている「対話塾」に参加した。そこでどうしても聞いてみたかったことがあった。日本に住む人で、ラクダ、獅子、小児がどれだけの割合なのかということを。
泉谷さんによると、ラクダ97:獅子2:小児1だという。思った以上にラクダの比率が高いという感想を持った。泉谷さんの言葉を借りると、大半は「諦めのラクダ」だという。自分を見失ったラクダとも言えるだろう。自分を見失ったからこそ、世の中の当たり前とされるものに、やむなく従わざるをえなくなっているとも言える。
私は、ラクダの人生でいいという人はそれでいいと思う。世の中にはいろんな価値観がある。獅子になることを強いたりはできない。
ただ私はラクダの人生を続けることができないと悟った人間だ。ラクダは辛い。私にとっては味気ない。そう思う人は少なくないかもしれないと思っている。
どうすれば獅子に変わるのか。それは「怒り」が重要だということだ。頭由来の瞬間的なヒステリックな怒りではなく、心から発する怒りこそ獅子になる着火点になる。泉谷さんはそれを「ゆるぎなく静かな怒り」とか「愛に基づいた怒り」という言葉を使っていた。
私なりの理解では、世の中に対してなんとなく感じているおかしさ、言葉にできない違和感といったことが、その芽吹きなのではないかと思う。それこそまさに、精神的な不調を抱えている人が感じているものなのではないか。メンタルの不調は本当に苦しいが、ただそれは見方を変えれば、世間の常識を疑い、個人としての価値観を生み、人生を変革する機会にもなるのではないか。それはラクダの人生から、獅子へと変わる転機とも言えるのではないのだろうか。
「諦めのラクダ」のまま生きるか、「怒りの獅子」に変わるか。真に自分の人生を生きたいと願う人に問いかけたい、私なりのメッセージだ。
コメント