なぜふたりは出会ったのか〜「無花果の森」(小池真理子)

小池真理子さんの作品を久しぶりに読んだ。2011年の作品「無花果(いちじく)の森」。2日間であっという間に読み切った。

38歳の女性主人公・泉が自らそれまでの人生と決別し、岐阜の地方都市に身を潜めて生きていく物語。老婆との淡々とした日常風景が進むと思いきや、そこで偶然にも過去に会った雑誌記者と再会し、物語が急展開していく。

小池さんの本はこれまで「無伴奏」「恋」「欲望」など読んできた。特に男女の心理描写が細やかに描かれているところが私がひかれるところだ。男性にはなかなか窺い知れない女性の心を感じ取れる。

なぜ人の心理描写に自分は興味をひかれるのか。それは自分自身の心がずっとわからないと思い悩んできたからだと思う。記者という仕事をしながらも、それがずっと向いていないと思い続け、大学以降の自分の人生を激しく後悔し、いったい自分は何者なのか、悩み続けてきた。今もはっきりした答えが見つかっているわけではない。見つかっては消え、消えてはおぼろげに姿を表すということの繰り返しだ。

ただ私は来年3月、12年続けてきた記者をやめることを決断した。これ以上続けても、私の心は決して明るくならないことを知ったからだ。過去と決別するためには、新たな道に自ら踏み出さなければならない。その道は決して平坦ではないだろう。だけど動かないことには何も変わらない。

作品の主人公・泉も、夫から激しい暴力を受け続ける人生を終わりにしようと、自らの意志で別れを決断した。手元の財産68万円を持って逃げ出した後も思いも寄らない展開が続き、その後の人生も決して安泰ではない。ただ、自分の意思で決めたからこそ、泉の人生からは生き延びようとする芯の強さを感じる。夫になすがままにされる人生とは全く違う人生だ。

別れるからこそ、新たな出会いがある。人生はその繰り返しだろう。なぜこの作品のふたりは出会えたのか。それはふたりがともに別れたからだ。過去の人生に見切りをつけたからだ。その人生は世間から見れば必ずしも幸福とは言えないものなのかもしれない。だけれど、自分が生きている、それを実感できる人生こそ、人が生きる尊さがあるように感じる。

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