「『目指す』っていうの、なんか痛そうだよね」。記者になり、言葉を書くようになったばかりのころ、誰かがこんなことをいうのを聞いた。何をいっているのかよく分からなかったけれど、話を聞いているうちにこの漢字が「目」と「指」から成っていて、まるで目に指を入れるような連想をするから痛そうに感じるのだと知った。
この「目指す」という漢字のことを聞いたのが、自分が日本語に興味をもったきっかけのひとつかもしれない。なぜ「めざす」は「目指す」と書くのだろうと。
この本には、私たちが使う漢字についてのそもそものふしぎについて書かれている。和語と漢字は性質のまったく異なるもので、日本に漢字が入ってきた千数百年間の日本人は、中国生まれの言葉を四苦八苦して取り入れようとした。漢字をありがたがるたちは、現代の私たちが英語を使うとちょっとデキる人のように映るのと近いものがあったようだ。
この本で驚いたことは、明治と戦後当初に日本語を廃止する検討が政府内で真剣にされていたといういこと。西洋に追いつくには日本語をやめて、英語を国語にすべきだという考えのためだ。マスコミで特に論陣を張っていたのが読売新聞で、いまの題号が横文字なのはそのときの名残だそうだ。
言葉は生きものだというが、正しい日本語というのはいったい何なのだろうか。すくなくない漢字は、当て字だという感じもする。冒頭の「目指す」も「目差す」という書き方もあるそうで、本当はどれが正しいのか分からない。
自分が通っていた北九州随一のヤンキー中学では、髪を色とりどりに染めた元気な不良たちが学ランの裏に「夜露死苦」と刺しゅうで縫い付けていた。かれらが数ある「よ」「ろ」「し」「く」の音がする漢字の中で、その字を選んだのは、世の中に反発しようとする彼らなりのメッセージを込めていたのだろう。音だけなら例えば「代呂詩句」でも良かったはずだ。だいぶマイルドな印象に変わる。日本に漢字が入ってきたばかりの千数百年前の日本人が、日本語に漢字を当てはめていった作業の大変さを思うと同時に、もっと言葉に自由であっていいのではないかという思いが湧いた。