こんなことをふと思うことはないだろうか。「自分の仕事を心から愛せるのならどんなにかいいだろう。給料をもらうために自分の時間と労力を何かよくわからないものに使うのではなく、自分自身が大切に思うことをめいいっぱいやってみたい」
私自身はそのように思っている。あたまもからだも力一杯使い、仕事を通じて私自身が生きていることを日々実感しながら生きていければいいと。もちろん、仕事だけではなくて家族との愛しい時間や友だちとの心ある関わりも含めて人生を味わい尽くしたいと思っている。その上で、自分ならではの仕事で生きている味わいを深められれば、幸せの濃さがより増すように感じる。
こうした思いをもたせてくれたのが、熊谷達也さんの「邂逅(かいこう)の森」(文春文庫)だ。今年読んだ小説の中でもっとも心深く響いた一冊となった。
マタギを描いた作品だ。主な舞台は北秋田の阿仁(あに)という山深い山村。貧しい小作農として生まれた富治という名の主人公が、マタギとして生きていく物語だ。
森の中で出くわしたクマを撃ち毛皮などを売って生きていく荒々しい男。それがマタギに対する私のイメージだった。単独行動で、腕っ節に任せるがままクマと戦うバクチのような仕事を想像していた。
この本を通じてマタギの世界に立ち入ることで、その見方は多面的なマタギという生き方の、ほんの一面にすぎないことを知った。野生の生きものを相手にするぶん、たしかにバクチのような賭けごとの側面はあるようだけれど、木々を吹き渡る風の強さや向きから気象の変化を読み取り、森の地形からクマが潜んでいそうな場所にあたりをつけ、鍛え上げた銃の腕によって一発必中で仕留める姿は、ひとつの信じる道を一途に探求し続ける求道者のように映った。自然を敬い、あがめ、恐れ、ともに生きるマタギたちに、自然の掟とともにある文化集団といった印象を受けた。
マタギの生き様にひかれ、9月の連休を使って実際に、北秋田を訪ねた。透き通った青色の湖面が輝く田沢湖から車で1時間弱の所にある阿仁は、果ては日本海に流れゆく阿仁川の清流に刻まれた深い山々に囲まれていた。もっとも高い森吉山でも標高1454mと、3000m級の険しい岩山が連なるアルプス山系とはことなり、たおやかさを感じる山の連なりだった。秋にはまだ早く、茂りきった濃い緑の山々の姿が目に染み入った。
ぼくがそもそも「邂逅の森」を知るきっかけになったのが「阿仁マタギ駅」というふしぎな名前の駅を地図で見つけたことだった。阿仁という言葉もはじめは「あに」とは読めず、またどうしてマタギという名が付いているのかもわからなかった。調べていくうちに、この北秋田はかつて日本でも指折りのマタギで栄えた地域であったことがわかった。そして阿仁マタギについて描かれた作品が、この「邂逅の森」だと知った。
阿仁のマタギ資料館を訪ねた。クマと戦うための銃や突き矢、毛皮を剥ぐための弧状のナタなど、実際に使われていた数多くの道具が並んでいた。あわせて、山を敬うための精神的な営みを感じさる品々も置かれていた。ひとつ目を疑ったのは、オコゼの干物だ。阿仁は海からも遠く離れており、どうしてこんな珍品があるのだろうか。
オコゼは「山の神」に捧げていたという。阿仁マタギが信じる山の神はひどく醜女だということだ。押しつぶされたようなオコゼを捧げることで、「この世には自分より醜いものがある」と喜ぶのだそうだ。山の神の機嫌をとることで、狩りのぶじを祈念する風習だったそうだ。人知を超えた力をもつ自然に対して、人間ができるめいいっぱいの敬いの風習のように感じた。
マタギはむやみに野生の生き物を殺めていたわけではない。山に入るのは雪ふりつもる冬の11月〜2月に限る。冬眠中のクマが脂肪を蓄えているという理由が大きいそうだが、生き物を取り尽くさずにともに生きるという考えが根底にあったようだ。そこにも山とともに生きるマタギの祈りのような思いを感じた。
「邂逅の森」の主人公・富治は一時、マタギの世界から足を洗って鉱夫となった。しかしその後、思わぬきっかけでマタギの世界に戻る。それは苦しみや辛さも含めてマタギの世界を愛していたからだろう。マタギは単なる収入源としての稼業を超えて、ひとりの生き方であり、そして文化をもなすものだと私には映った。
私がこうしたことを考えたのは、私自身がコーチという職業に出会ったことも関わっている。半年ほど前に出会い、そして少しずつトレーニングを積む中で、私はコーチにはコーチ特有の考え方があるように思い始めている。コーチのスタイルごとに違いはあると思うけれど、「人の可能性を限りなく信じる」ということは、深いところで共有していると思う。私がトレーニングを積んでいるCTIというスクールではNCRWという考えがある。”Naturally Creative Resourceful and Whole”の略で、「人はもともと創造性と才知にあふれ、欠けることのない存在である」と訳されている。ひとは望むことはどんなことでもできる力が備わっており、いかなる人も限りない可能性のある存在だ、といった意味だと私は捉えている。
私自身、この考えが大好きだ。実際にひとはこういう存在だと信じている。あるCTIのコーチから「どんなコーチでいたいかは、どんな私で生きていたいかとつながる」という言葉を聞いた。コーチという職業は、生き方そのものになりうるのではないかという思いが湧いた。単なる生活費を得るための手段などではなく、自分の人生そのものを濃く、鮮やかにできる仕事なのではないかと感じ始めている。マタギがマタギの文化を愛して生きたように、私もコーチがつくりだす文化そのものを愛しながら生きていきたい、いまそんなふうに思っている。
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