【心奮い立つ詩 ①】「落ちこぼれ」(茨木のり子)

この【心奮い立つ詩】コラムでは、私のとびきり好きな詩を紹介します。ご自身を、ふと見つめ直すひとときになりましたら幸いです。

初回は茨木のり子さんの「落ちこぼれ」です。ご存知の方も多いかもしれません。私もこの詩を愛するひとりです。

落ちこぼれ   
  和菓子の名につけたいようなやさしさ 

落ちこぼれ   
  いまは自嘲や出来そこないの謂(いい)

 落ちこぼれないための
   ばかばかしくも切ない修行 

落ちこぼれにこそ
   魅力も風合いも薫るのに

落ちこぼれの実
   いっぱい包容できるのが豊かな大地 

それならお前が落ちこぼれろ
   はい 女としてはとっくに落ちこぼれ

落ちこぼれずに旨げに成って
   むざむざ食われてなるものか

落ちこぼれ
   結果ではなく

落ちこぼれ
   華々しい意志であれ 

「落ちこぼれ」という言葉には、なにかネガティブな印象があります。学校でしたら授業についていけない落第生だったり、会社でしたら成果がいまいちな社員だったり、そんなイメージが湧いてきます。

辞書を引いても「落ちこぼれ」という言葉には、プラスの意味は見当たりません。しかし、「おちこぼれ」というひらがなを改めて噛み締めますと、どこか優しく、柔らかな響きを感じさせます。冒頭の「和菓子の名につけたいようなやさしさ」という表現に、茨木さんがこの言葉に向けるあたたかな眼差しを私は感じます。

私たちは6歳で小学校に入り、18歳で高校を卒業し、人によっては大学や専門学校に進み、そして勤め人を選ぶ人は会社や組織に所属して働きます。その間、私たちは常に他の人と比べられ、足りないところは補うように尻を叩かれ、規則に従うように教え込まれます。競争したり厳しいルールの中で生きていくことで、生活する力が身についていくということもあるでしょう。でも何かの拍子でふと立ち止まった時、なにか得体の知れないむなしさや、やるせなさが胸を突くように感じた経験はありませんか。

私はそんな胸をえぐるようなむなしさに襲われた時期があります。34歳のときに1年弱、精神的などん底へをさまよっていました。高校卒業以降の自分自身の人生をことごとく否定したくなる思いがつきまといました。自分が歩んできた人生は、私自身が本当に心から望む道だったのだろうかと。自分自身を押し殺し、偽り、世間というレールからはみ出さないように生きてきただけではないのかと。

自分の経験から、この詩の「落ちこぼれないためのばかばかしくも切ない修行」という言葉に、私はいたく共感します。茨木さんの常識を疑う目と、世間の中でもがく人への同情心を感じます。

私たちは、学校では偏差値というものさしによってはかられ、会社では営業成績などといった成果によってはかられます。なんだか、いつも決められた形に押し込められているような気が私にはします。

しかし、そうした決められた枠の中でお行儀よく振る舞うことを良しとする人生に、一人ひとりのその人らしさは本当に発揮されるでしょうか自分以外の誰かが決めた物差しに従って、一喜一憂する生き方に、心からの歓びを感じられるでしょうか

私がとりわけ好きなのは最後の言葉です。

落ちこぼれ 結果ではなく 落ちこぼれ 華々しい意志であれ

私はこの言葉の連なりに、ほかの誰かから与えられた枠を、自分の意志であえて飛び出す力強い人の姿を思い浮かべます。他人から「落ちこぼれ」と言われようがお構いなく、私は私の人生を生きると奮い立つ、人の決然とした意志を感じます。

なぜあえて「落ちこぼれ」の道を選ぶのでしょう。それは誰かが作った世間の枠がつまらなかったり、味気なかったりするからではないでしょうか。僕自身の実感を込めて言えば、世間体が嘘っぽく感じるからだと思います。私は飛び出す人に、自分自身を生きたいという切実な願いを感じます。

会社員などの組織人は「使いやすい人」が評価をされるでしょう。上司の指示にきちんと従う人ほど良しとされます。使いやすい人は、言葉を変えれば決して落ちこぼれない人です。もちろん、そうした方も必要ですし、そうした落ちこぼれない人生を本人が望むのであれば、僕が口をさしはさむことはありません。

しかし、他人からの期待に応え続けた結果、自分を見失うことがあってはならないと思います。会社員である私自身の同僚にも、自分の本心の望みなどとうの昔に忘れてしまったように見受けられる方はたくさんいます。そうした人の中に、メンタル面を病んでいる方がたくさんいるのも知っています。この詩でいう「旨げに成ってむざむざ食われて」しまった方なのではないかと、私は思います。

私はそれを残念に、そしてもったいないなと思うのです。一人ひとりがその人にしかない持ち味があると思っているからです。せっかくの持ち味が、組織にいる間にしなびて使いものにならなくなってしまうとしたら、とてもかなしいですし、人を生かさない社会に怒りを覚えます。

ほかの誰かからむざむざ食われてしまうのを、もしあなたが良しとしないのなら、考えてみるのはどうでしょうか。意志ある落ちこぼれ」となることを。私はあえて落ちこぼれになることにこそ、自分自身をめいいっぱい活かして一度きりの人生を味わい尽くす道があるのではないかと思っています。

<詩は茨木のり子詩集(岩波文庫)から引用しました>


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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 「おちこぼれ」って言葉、ひらがなにすると、何かがこぼれる・溢れる感じですごく優しく感じますね。
    その人の人間らしさではなく、「使いやすい人」が評価される社会については、わたしも疑問を抱きます。なんだかロボットになれと言われているみたいで、好きじゃありません。
    「意志のあるおちこぼれ」なります。もっともっと落ちこぼれて、人生味わい尽くせたら最高ですね!
    素敵な言葉をありがとうございました。

    • あやかさん、コメントありがとうございます! 「おちこぼれ」、ひらがなにすると本当にやさしい感じがしますよね〜!
      たしかに「使いやすい人」というのは、命令に素直に従うロボットみたいな印象がありますね。一人ひとりが意志をもって、互いの意志を尊重し合えるような社会であればいいな、と思いました。

      「もっともっと落ちこぼれる」、最高の言葉です! ぼくもどんどん既存のレールから外れて、自分の道を切り拓いていこうと思います!
      あやかさんの活動を応援しています!!

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