紀伊半島を11月下旬、1週間旅しました。旅生活も6ヶ月目に入ります。和歌山や三重はこれまで訪ねたことがなく、まだ見ぬ景色に胸を高鳴らせて愛車・フルエール号を走らせました。
とりわけ印象に刻まれたのは、熊野古道を旅した先人の想いでした。熊野古道とは、和歌山県南部の山あいにあり全国3000社ある熊野神社の総本山とされる熊野本宮へ向かう巡礼の道を言います。なぜ、いにしえの人たちは厳しい山や川を越えて熊野の地をめざしたのか、その真意に触れる旅でした。
目次
150キロ先から「熊野古道」の標識
熊野古道について、私はほとんど事前知識がありませんでした。熊野という場所へ向かう山道があるのだろうと思っていた程度です。愛知から三重に入り、伊勢神宮を訪ねた後、沿岸を南下して熊野へ向かうことにしました。スマートフォンの地図で調べると熊野本宮までは150キロほどあるようです。2日間ほどかけて行けばいいと思い、車を走らせると早々に「熊野古道」の道路案内が目につくようになりました。まだはるか先なのに、熊野古道はもうこんなところから始まっているのか、とふしぎな思いがしました。

熊野古道について調べてみようと思い、三重県尾鷲市にある熊野古道センターに立ち寄ることにしました。展示を見ていると、熊野古道とは大きく5つのルートがあることを知りました。伊勢神宮から三重の東海岸を進む「伊勢路」、和歌山の西海岸を進む「紀伊路」、和歌山の海岸から内陸の熊野本宮へ向かう「中辺路」、和歌山の南岸を歩く「大辺路」、高野山から山岳エリアを南下する「小辺路」と呼ばれる道です。
熊野への参詣は平安時代の皇族や貴族から始まり、京都から往復600キロメートルの道を往復1ヶ月かけて歩いていったそうです。江戸時代には民衆に広がり、山道を歩く熊野への巡礼者が後をたたない様子を、蟻が歩き回る様子に例えて「蟻の熊野詣で」という言葉もあったと知りました。熊野への道は山や川を越えて歩かなくてはなりません。道すがら、命を落とした人も少なくなかったそうです。
そんな展示を見ながら、私はひとつの疑問が湧きました。どうして、いにしえの人は命をかけても熊野をめざしたのだろうということです。熊野本宮へは、車でも急峻な崖を横目に見ながら、片側一車線の険路を進まなくてはいけません。「近場の神社にお参りに行く」という気軽さでは到底できないものです。熊野への巡礼者は、いったい何を思って険しい道を歩いていたのか、興味にかられました。
浄土を思わせる風景
尾鷲から内陸に入り、国道169号線に入ります。車通りはほとんどありません。山道を走っていると、熊野川水系の清流が織りなす景観に目を奪われました。激流がしぶきをあげる大渓谷を抜けると、悠々とたおやかな河原が広がっていました。浄土を思わせるような景色です。いにしえの巡礼者はこの景色を見てどのような思いを巡らせたのでしょうか。

熊野川をさかのぼり、熊野本宮へつきました。158段の石段を登り切った先に現れたのが、檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根が特徴の社殿です。日本神話の神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っています。簡素でありながらも重厚感のある外観に、自然崇拝の聖地が醸し出す静かな威厳を感じました。

境内の案内を見ていると、ひとつの記述に興味をひかれました。この本宮は1891年に移転されたもので、それまでは熊野川の中洲にあったのだといいます。移転する2年前の洪水をきっかけにこの高台に移ってきたそうです。その中洲は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる徒歩10分ほどの場所だと知り、そちらに向かうことにしました。
川辺に立つ高さ30メートル超の鳥居
熊野川のほとりに出ると同時に飛び込んできたのは、巨大な鳥居です。中洲にある田んぼの真ん中に鎮座する情景に、思わず驚きの声が漏れました。高さは34m、横幅は42メートル。東京の明治神宮の約3倍のスケールがあります。巨大な鳥居に刻まれた熊野本宮の象徴、八咫烏(やたがらす)のモチーフが、ここが特別な場所であることを知らせているようでした。

鳥居をくぐり、かつて本殿があった場所へ行くと、周囲より一段高くなっている学校の校庭ほどの広さの草地がありました。かつては5棟12社の社殿や能舞台などが並ぶ熊野信仰の中心地だった場所です。今は人の背の高さくらいの石造の祠が立っているくらいでした。しかしこの場所は今でも霊場とされ、写真の撮影は禁止されています。木々に囲まれ、静謐で清浄な空気が流れていました。
平安時代の昔から、熊野をめざしてきた人は皆ここへ向かってきたのかと思うと、なにか感慨深い気持ちとなりました。
巡礼者の願い
この霊場に立つ案内を見ていると、ある一文が飛び込んできました。
「ここは全熊野古道の終着点であり、よみがえりの出発点」
この一行を読んだ時、私は胸の内が深く響きました。全ての熊野古道がここに行き着くということもさることながら「よみがえりの出発点」という表現に深く感じ入ったのです。
この言葉を見たときに、いにしえの巡礼者がなぜ命をかけてこの地に来ようと思ったのか、理由の本質が見えた気がしました。険路を命をかけて歩く巡礼者の胸の内には「よみがえりたい」という思いが根底にあったのです。
熊野への道は、現世から浄土へ向かう象徴でした。浄土へ向かうためには、死を経験しなければなりません。死の擬似体験のひとつとしてこの中州には橋がかかっていなかったそうです。巡礼者は身体を水にさらさなくては、本宮に辿り着けませんでした。険しい山歩きも含め、最後に川に身をさらすことで「擬似的な死」を経験したのです。
熊野古道センターで見た「現世から浄土へ、そして浄土から現世」という言葉を思い起こしました。熊野の地はまさに「よみがえりの地」という位置付けだったのです。熊野巡礼のコンセプトは「よみがえりの旅」であり、それが1200年前から多くの人を引きつけた理由だったのだと思い至りました。

私自身の旅の理由
「よみがえりの旅」という言葉に、なぜ私が感じ入ったのかといえば、私自身のこの旅自体もまた同じではないかと直感的に思ったためです。
私は今年3月末に12年間の新聞社勤めを卒業し、独立しました。新卒から働き続けた会社を辞めることは、これまでの人生で最大の決断でした。辞めることを決断するまでは、うつ状態になり生きているのか死んでいるのか分からない数ヶ月を過ごしたこともあります。
退職と同時に買ったキャンピングカーで全国をめぐる旅も、6ヶ月目になりました。旅も終盤になり、改めてこの旅の意味を考えるようになりました。もともとは「自然を感じる暮らしがしたい」という思いがあって始めたものです。しかし、旅を続けている間にもうすこし違った意味合いもあるのではと思い、言葉にならないもどかしさ感じていました。
そのもどかしさが、「よみがえり」という一言で、氷解していきました。
なぜ朝陽を追いかけ続けたのか
思い返せば、この旅で私が追いかけ続けていたのは朝陽でした。朝陽に惹かれるようになったのは、悩むことの多かった会社員時代からです。
朝陽が織りなす光のセレモニーは、いつ見ても心ふるえる情景です。地平線の空が漆黒の闇から薄墨色になり、赤の色彩が混じっていきます。その色は分刻みで彩度を上げて、雲の底を橙色に染めていきます。次第に東の空いっぱいに朝の光が満ちていきます。そして十分明るくなってから、最後の主役登場と言わんがばかりに、一点の欠けもないまん丸とした太陽が現れます。水平線から昇る情景を見ていると、仏が地上に姿を見せたように思えてきます
なぜ自分が朝陽はひかれているのか。考えてみれば、朝陽こそよみがえりの象徴だということに気づきました。

この旅は、独立して新たな人生を始める上での「よみがえりの旅」なのだと思いました。いにしえの巡礼者の熊野への旅と、私のフルエール号の旅は、歩きと車という違いはあります。しかし根底での願いが重なることに気づきました。これはきっと私だけでなく、旅をする方に共通した願いなのかもしれません。
コーチングは「よみがえりの対話」
記者から転身した私はいま、コーチングの仕事をしています。さまざまな方と対話する中で、よく見かける場面があります。対話の相手の方が、胸の内にある思いを言葉にして、何かに気づいたときに見せる、ふと息を吹き返すような表情です。話の早さや声のトーン、姿勢などが変わります。生気が身体に戻る場面と言えるかもしれません。その人が内側にあるものに気づいた時、人は再び力を得るのだと思います。
私がトレーニングを受けているCo-Active Training Institute(CTI)ではコーチングの重要な目的として「本質的な変化」をあげています。英語の原文では「Evoke Transformation」と表現しています。この発想こそまさに「よみがえり」とも言えることに気づきました。
コーチングとは「よみがえりの対話」なのかもしれません。かつて熊野を歩いて旅した人と同じように、コーチングは対話という旅を通じて、心をよみがえらせるものなのでしょう。
熊野へ向かうルートのひとつでもある高野山を開いた弘法大師空海は「自らの心が世界をつくる」と説きました。人が迷うのは「自らの心に迷っているからだ」と看破しました。人には皆、自らの内側に迷いを解く光がありそれを「自宝」という言葉であらわしました。
熊野へ向かう巡礼者の旅は、厳しい自然に身を浸す中で自分の内側にある「自宝」を見つける時間だったのではないでしょうか。自らと向き合うことで「自宝」を見つけ「よみがえり」を願ったのかもしれません。それはコーチングの仕事の本質でもあると感じました。

取材期間:11月24〜30日
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