
命の声を聞いた東北30日
北海道50日の旅を終え、9月20日の午前9時半に函館港からフェリーに乗り、津軽海峡を超えて午前11時、青森の最北端・大間港に到着しました。東北は青森、秋田、岩手、宮城、山形、福島の6県を1ヶ月かけて南下しながら巡っていきました。
東北はその6県を「東北」と一括りにするのがためらわれるほど、多彩で鮮やかな文化が根付いた地域でした。浄土と地獄が交錯する下北半島・恐山の風景、青森と秋田にまたがる白神山地の神々しいブナの森、絢爛な平安文化伝える平泉の中尊寺金色堂、花巻を彩る宮沢賢治のイートハーブの世界観、自然と都市が織りなす杜の都・仙台、上杉鷹山の思想息づく山形の米沢、気骨ある文化都市・会津といった、郷土色ゆたかな土地が心に刻まれています。
感情が込み上げた場面がありました。東日本大震災の被災跡地に立った時です。1万8千人もの命が奪われた東日本大震災で最も被害が大きかった地域の一つ、南三陸を訪ねました。復興の願いを込めて「南三陸さんさん商店街」と名付けられた木造りの飲食街の隣に、被災の跡をまざまざと残した広大な祈りの広場がありました。南三陸町震災復興祈念公園です。

南三陸では人口約1万7千人のうち、死者・行方不明者は830人近くに上り、町の中心部は壊滅状態になりました。津波が押し寄せる中「高台に避難してください」と最後まで避難を呼び続けた女性の声を覚えている方も多いと思います。その女性がいた防災庁舎は、鉄骨の骨組みをむき出しにして遺構として残っていました。
らせん状の遊歩道を登り「祈りの丘」と名付けられた高台に立ちました。その丘からは、リアス式海岸に包まれ穏やかに静まる志津川湾が見えました。この静かな海を、高さ10メートルを超える波が時速100キロを超えて押し寄せたとは想像するのも難しいほどです。
静まり返る丘に一人立ち、目を閉じました。意識を心の内に向けていると、込み上げる感情が次第にふくらんできました。
目を明けると海に向かうモニュメントに刻まれた言葉が目に入りました。

「いま、碧き海に祈る 愛するあなた 安らかなれと」
南三陸町の職員の言葉だそうです。簡素でありながら慈しみのある一言をかみしめ、再び目を閉じました。ひとつの明確な事実が、津波のような勢いで自分の心に押し寄せました。
「生きたくても生きられなかった人がいる」
この事実が実感を伴って身に迫ってきました。2011年3月11日、海に引き摺り込まれて、理由のわからないうちに息絶えた数多くの命が本当にあるのだということを、全身のふるえとともに理解しました。
同時に、死ぬ理由もわからず死んでいった無数の人のまなざしが、いまを生きている自分に向けられているように感じました。無数のまなざしは「あなたはなぜ今生きているのか」と問いているようにも思いました。
込み上げてきたのは「生きている限り、自分の命をめいっぱい使わなければ、死んだ人に申し訳ない」という思いでした。命は誰にとっても一回限りです。一回限りの人生を、生きているうちから、生きているのか死んでいるのかわからないように生きることは、生きたくても生きられなかった人に、あまりに申し訳が立たないことなのではないかと思いました。
この思いは、後に広島の平和記念公園のモニュメントの前に立った時にも感じました。亡くなった人の世界に思いを寄せることは、ひるがえって、いまを生きる命の尊さを知ることになるのかもしれません。この祈念公園には「みらいの森」と名付けられタブノキやヤマモミジなど70本の木が植樹された区域がありました。小さな木々の命は、これから数十年後かけて大きく育っていくのでしょう。私自身も生きている限り、この木々が1日1日成長していくように、日々少しでも命をゆたかに活かしていきたいという思いになりました。

仲間との再会、関東21日間
東北を抜けて関東に入りました。駆け出し記者時代に3年滞在した栃木、大学以来住み続けた東京を中心に21日間滞在しました。
多くの出会いをいただいた3週間でした。学生時代の友人、職場の同僚、取材でお世話になった方々、記者時代の仲間、気象予報士の恩師、コーチング仲間など多くの方とお会いしました。コロナ禍の中でもタイミングを合わせて時間を作ってくださったお一人おひとりとの出会いがとても嬉しく、心に刻まれています。
自分はもともと社交的な人間ではありません。東京にいた17年間、私は決して心明るく過ごしたわけではありませんでした。率直に打ち明ければ、辛かったことや寂しかった思い出の方が多く残っています。志望の学部に進めず迷い明け暮れた大学5年間、口下手な自分には向いていないと思い続けた新聞記者時代、30代前半まで不安定な気持ちを持ち続けていました。

しかし、今回東京で過ごした10日間は、そんな東京時代を上書きするような心温かい思い出を作ることができました。ゆたかな思い出は、出会う人と一緒につくるものなのだと思います。いつ、どこで、どのような人と会えるかは、誰にもわかりません。たまたまの出会いを意味あるかけがえのないものに変えるのは、結局自分の心ひとつにかかっているのでしょう。ともに学び合うコーチの仲間たちと浜離宮へ行きました。コーチという人を信じる仕事を志し、年齢、職業、性別を超えて関わり高めあえるコーチの仲間の存在は、私にとってかけがえのないものだと改めて思い至りました。
月食とチャレンジャーにふるえた東海15日

関東の滞在を終えて、東海へ入りました。太平洋側を中心に、山梨、静岡、長野、愛知、岐阜を15日間かけて走りました。
東海では月食の天体ショーに出会いました。月の98%が隠れほぼ皆既月食となる11月19日、私は愛知県の渥美半島の先端にいました。夕方に姿を見せた満月が、17時ごろから侵食されるかのように徐々にかけていきます。私は恋路ヶ浜という周りにほとんど人工の明かりのない砂浜から月を見上げていました。月が欠けていくにつれて、月明かりが弱くなり、砂浜と海辺が闇に同化していきます。18時ごろには月がほぼ姿を消しました。月明かりがいかに夜を照らしているのかを身をもって知る思いでした。そして再び月はその明かりを取り戻し、20時には元の満月に戻っていました。夜の海に月明かりが静かに輝いていました。
地球は動いている。壮大すぎて感じにくい事実を、月食は明瞭に教えてくれました。同時に、46億年の歴史がある地球にいまこの瞬間、自分が生きていることのふしぎを思いました。

東海ではまさに「いま」を生きるチャレンジャーたちとの出会いが鮮烈に刻まれています。静岡の景勝地・三保松原で「音」を切り口に新たな観光体験を届けようとする新聞社時代の後輩、教育の場に対話を重視する「コーチング」の導入をめざす小学校の先生、場所とにとらわれない生き方を実践しようと東京と岐阜の二拠点生活を始めたコーチ仲間と出会い、語らい、胸がふるえました。
どんな時代にも、その時代の課題に挑み、越えようとしている人がいます。そんな人との語り合うことで、いまを生きる意味を知れるように思います。
山梨の富士山レーダードーム館を訪ね、同じことを思いました。1960年の初め、富士山の頂上で気象レーダー観測を立ち上げる事業は、常識はずれなほどに困難な仕事でした。しかし、当時この仕事に携わった人たちは「台風から人命を救う」というミッションのもとに難事業を超えていきました。どんな時代にも、大小関係なく「使命」と呼べるものを見出すことで、人はその命を一途に燃やすことができるのでしょう。
「今の時代に、私もまた挑戦したい」。東海で出会ったチャレンジャーに鼓舞されて、フルエール号は紀伊半島へと向かっていきました。
(4に続きます)
コメント