大分・別府を6月30日に発ち、7月1日の朝、フェリーで大阪に到着しました。仕事関係の講習を2日間受けて関西から本格的に旅が始まりました。
目次
「三傑」を取材した関西15日
関西で過ごした15日間は大阪、京都、滋賀を巡りながら経営者を取材しました。各地でもっとも影響力があり、かつ理念を大事にしている人物に注目しました。
私が理念に着目したのは、新聞記者時代がきっかけです。12年間で多くのリーダーにインタビューをさせていただきました。大臣、省庁の次官、知事、議長、企業経営者といった硬派なリーダーから、トップスポーツ選手、日本一のバーテンダー、NPO創設者、地域の観光の牽引役など各分野で存在感を放つリーダーまで、多くの方と直接対話する機会に恵まれました。
各界のリーダーと対話するうちに、私はときどき違和感を覚えることがありました。「社長」という立派な肩書きをもつ人であっても、自分の言葉で語っていないように感じる方が少なくないということでした。記者という仕事は、相手の言葉を聴く仕事です。どの話を記事に盛り込むか、最前線の記者は相手から出てくる言葉に集中しています。しかし社長によっては、話す言葉が全然「伝わってこない」と感じられるのです。「伝わってこない」というのは、記者として「記事にしたい言葉が見つからない」ということです。目の前の記者に伝えられなければ、部下たちにどうして響く言葉を伝えられるのだろうとふしぎに思うことがありました。
その反面、自分の言葉で語るリーダーは、メモをする手をとめてしまうほど全身を耳にしました。実体験から語るリーダーの言葉は、話し方が流ちょうであるなどといった瑣末なことは関係なく、聞き手の心を惹きつけます。「なぜこの仕事をしているのか」明確に自分の言葉で語れるリーダーの周りには、必ず応援者がいることにも気づきました。一記者の私としてもそうしたリーダーの言葉は、世に伝えたいと思いました。
こうした体験から「自分の言葉で語ること」の大切さを記者時代に学びました。自分の言葉を「理念」に仕立てることに興味をもち、コーチング事業を始めました。その流れで、旅の間でも「自分の言葉をもつ」人を取材したいと思ったのです。
理念でまず思い浮かぶのは経営理念でした。書店の経営コーナーに置かれている2大巨頭といえば、現・パナソニック創業者の松下幸之助と、京セラ創業者の稲盛和夫です。大阪では松下幸之助、京都では稲盛和夫の関連施設や関係者を取材し、記事にしました。
(松下幸之助の記事、稲盛和夫の記事)
「商売は『三方よし』の精神が大切だ」といったことをよく聞きます。滋賀県では、その「三方よし」の理念を生んだ近江も訪ねました。近江商人発祥の地である五個荘(ごかしょう)などを訪ね、伊藤忠商事の創設者である伊藤忠兵衛の旧宅も取材しました。「三方よし」が、仏教の教えに基づいていることなどに興味を持ち、記事にまとめました(近江商人の記事)
関西の「三傑」取材を通して、何か新しい価値を生み出す人はその人ならではの言葉があることを再認識した15日間でした。
「遊びに熱中する大人」に出会った北陸15日
7月16日に北陸に入りました。北陸15日間の旅で記憶に特に刻まれているのは、6日間を過ごし石川県の奥能登です。「泊まれる駐車場」をコンセプトする「田舎バックパッカーハウス」に滞在しました。
この宿を経営するのが中川生馬さんでした。あごひげを伸ばし、ターバンを頭に巻いて現れた中川さんは、一目見るだけで人を惹きつけるなにかを感じました。話を聞くと、米国で高校、大学時代を過ごして世界をバックパックで歩きながら、日本の有力企業で広報の仕事をしていたといいます。日本中をバンライフなどで旅しながらめぐりついたのが、この奥能登だったそうです。そんなエピソードに基づいた世の中への見方を、自分の言葉で語る中川さんに惹かれていきました。
そうした中川さんは磁場のように各地から人を呼び寄せる力があるのでしょう。この宿には各地からユニークな方々が集まっていました。過ごした6日間だけでも10人くらいの方と宿を共にしました。手作りキャンピングカーで駆けつけて、ゴムボートのSUPを膨らまして一目散に海へ繰り出す50代のアウトドアマン、朝陽を太平洋で拝み、沈む夕日を日本海で眺めることが趣味の自転車ツーリング愛好者など、遊びのスペシャリストが集まっています。さらに、オーストラリアからやってきた女性の英語教師、欧米で仕事をして子ども2人と日本に移住した米国人のコンサルタントなど、国際色もゆたかです。
そうした面々と一緒に奥能登の星空のもと、U字溝のコンクリートを積み上げた即席バーベキューコンロで、穴水産の丸々とした岩ガキをつつきながら酒を飲み交わします。のんびりとした田舎の風景と、英語で交わす国際的な会話に「ここはいったいどこなのか」とめまいがするようでした。
「遊びに熱中する大人」の姿を見ているうちに、自分の内側で剥がれていくものがあるように感じました。長年こびりついていた「社会人としてちゃんとあらねばならない」といった気持ちです。その剥がれた跡に感じられたのは「見えない未来にワクワクする」思いでした。長らく忘れていた感情でした。
この感情が湧き上がると同時に、車の奥にしまっていた一眼レフカメラを取り出し、海や山の風景を写真を撮り始めました。奥能登の七尾湾から昇る朝陽に陶然とし、沈む夕陽に心打たれました。3日間の滞在予定がいつの間にか6日間となっていました。中川さんに別れを告げて宿を離れるとき、真夏の太陽を浴びながら私の心は、始まったばかりの夏休みに興奮する純真な子どものようでした。
(中川生馬さんのインタビュー記事)
北の大地に響く朝陽のシンフォニー
7月31日の正午に新潟港をフェリーで出て、翌8月1日の早朝4時半に北海道・小樽に上陸しました。北海道にはその日から9月20日までの50日間滞在しました。177日の3割ほどの期間いたことになります。
なぜ北海道にそんなにも長くいたのでしょう。最大の理由は、壮大な大自然に惹かれたからです。果てしない地平線、終わりなき水平線が織りなす自然美に、心が踊りっぱなしでした。
とりわけ心ひかれたのは朝陽のセレモニーです。夜が明ける前、360度見渡す限りの大平野に立ちます。東の空がうっすら明るくなり始めます。そのあかりは徐々に彩度を上げて橙色に輝き始めます。雲の底が光り輝き始め、鳥が明け方の歌をさえずりはじめます。あたりに光が満ちた時、最後の主役の登場といわんがばかりに、赤々と照り輝く太陽が姿を現します。
毎朝繰り返される光のセレモニーは、設備の整ったどんな立派なホールで聴くコンサートよりも、私にとってはぜいたくに感じる、荘厳な大地のシンフォニーでした。雲のかかり具合や海や山など環境によって朝の光が変わる情景は、まるで指揮者によって同じ交響曲でも曲調が異なるように、見るものを飽きさせない地球を舞台とするエンターティナーでした。
17年間見続けたいと思っていた絶景
北海道を長期間旅するのは、19歳の時以来でした。当時私は大学1年生で、ワンダーフォーゲル部に所属していました。夏合宿は北海道が舞台でした。8人のパーティーで3週間、自転車で各地を駆け回りました。仲間と巡った17年前のその情景は、今でも鮮やかに記憶に刻まれています。
その合宿で、唯一心残りだったことがあります。北の果ての海に浮かぶ独立峰・利尻山に登った時、雲がかかって頂上から何も見えなかったことです。「もし晴れていたら、どんな景色がみれていたんだろう」。そんな思いが残り続けていました。
36歳になった私は、山頂からの景色を見てみたいと思いました。稚内にフルエール号を置いて利尻島に渡り、野営場で一夜を明かします。早朝から登り始め、11時ごろに登頂しました。
雲ひとつない快晴でした。眼下には360度さえぎるもののない海が広がります。空と海が青く輝き合い、標高1700メートルの高さから身体ごと吸い込まれていきそうです。遠くにはロシア領の樺太も見えます。圧倒的な光景に、山頂で我を忘れて立ち尽くしました。まるで北海道の天地が、独立した私を歓迎してくれているようにすら思えました。
「もう一つの時間」の実感
利尻島以外にも、北海道はさまざまな自然の姿を見せてくれました。知床も忘れがたい場所です。知床の先端へ小型線で向かいました。野生のクマが川で鮭を追いかけ、クジラが天に向かって潮を吹き上げる姿を目の当たりにしました。
そうした情景を見ていると、この地球は多くの生物で分け合っている星なのだという心持ちがしてきました。
いつか読んだアラスカの写真家・星野道夫さんの「もうひとつの時間」というエッセーの一節を思い浮かべました。都会に住む私たちと、野生の動物が生きる時間の違いを、語ったものです。私たちが慌ただしく生きているこの時間に、北海道ではヒグマが悠然と歩き、アラスカの大海原ではクジラが海面を跳ねているといった情景が描かれています。
「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、こころの片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい」
星野道夫「旅する木」より「もうひとつの時間」
多くの生き物が共存するこの地球で、人間の時間の観念はそのうちの一つに過ぎません。悠然と大自然を行き交うクマやクジラの生き方に想いを巡らせることで、私たちのあり方をより豊かに省みることができるのではないでしょうか。星野さんの問いかけが心ふかく響きました。
アイヌ文化との出会い
アイヌ文化に触れたことも大きいなインパクトがありました。日高山脈沿いにある平取町で開かれたアイヌのお祭りに参加しました。旅先で知り合ったキャンパー仲間から「やばいから来たほうがいい。世界観変わる」というたった一通のメッセージに、ただならぬものを感じて、夜道、美瑛からの150キロの距離を疾走してたどり着いた先に、初めての景色を見ました。
キャンプファイアーのような大きな炎の周りに様々な衣装と顔つきをした人が集っています。掘建て小屋のようなステージには、命の意味を歌詞にこめて絶叫するミュージシャンが楽器をかき鳴らし、ステージの下では曲に身を委ねた人の群れが左右に揺れています。自由を主張するヒッピーの集まりかのように思いましたが、どこかより深いメッセージ性を感じました。
祭りの主催者にインタビューを申し込みました。主催者のアシリ・レラさんに話をお聞きしていると、この山奥の会場はかつてアイヌ民族が虐げられた場所だったそうです。祖先に向けた鎮魂の祭りであり、同時にアイヌ文化を時代につなげていく意味も込めていると語ります。
北海道では各所で、アイヌ民族の文化施設を訪ねました。アイヌの自然観は、日本古来の「やおよろずの神」とは異なり、神をカムイと崇めながらも、対等な立場として接します。自然から学び、自然とともに生きる深く豊かな精神性がアイヌ文化の根幹にあります。アシリ・レラさんの話を聞きながら、そうしたアイヌの世界を、手弁当で次世代に伝え残そうとしている活動に心打たれました。
(アシリ・レラさんの記事)
アイヌ文化に浸るうち、私が強く感じたことがあります。日本は決して「みな一緒ではない」ということです。戦後に生まれて教育を受けた私たちに染み付いている「同質性」「横並び」「皆同じことがいい」というのは、国が植え付けた薄っぺらい幻想であるということです。国の発展を考えたときにはこうした教育の良さが合ったのかもしれません。しかし戦後から70年経った今の時代では時代錯誤でしょう。しかし、なおそうした「みな一緒」「空気を読め」といった論調は、幅を利かせているのが実情ではないでしょうか。
私はアイヌという文化が日本に残っていることは、社会の希望だと思います。違いこそ、真の豊かさにつながるものだと思うためです。日本という多民族国家が、真の意味で成熟したゆたかな国になるために、アイヌ文化はもっと知られていいと思います。北海道50日目、函館山からの夜景を眺めながらそのように感じました。
(3に続きます)
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