私は今年4月に独立し、キャンピングカー・フルエール号で全国を旅しながら仕事をしています。旅は出会いと学びの場です。
旅をしていると、先人たちがそれぞれの時代に汗を流した仕事に出会います。現在を生きる私たちが当たり前に見えている風景は、歴史の積み重ねの上にあることに気づかされます。
各地で先人たちが残した様々な仕事に出会ううち、時代を超えて色あせず、現代の人の心をもふるわす仕事には、共通するところがあると思い始めました。一言でいえば「常識はずれ」だということです。
このことを強烈に思い至ったのは、富士山麓を旅している時でした。
目次
富士山頂の気象レーダー建設
富士山の北嶺は、伸びやかな山すそに山中湖、河口湖、西湖など富士五湖と呼ばれる湖が並びます。ご当地名物はコシのある太麺で知られる「吉田うどん」。一杯すすった後、通りすがった道の駅「富士吉田」に車を停めて高台を見上げると、球形のドームを乗せた建物が目に入りました。
表札には「富士山レーダードーム館」と書いてあります。富士山の気象観測について以前、新田次郎の「芙蓉の人」を読んだことを思い出し、興味をそそられて入ってみました。富士山頂の気象レーダー建設は、1960年代前半の国家的なプロジェクトでした。館内ではその歴史が、当時の映像や文書で伝えられています。1時間ほどみて周り、この事業が想像をはるかに超えた難事業であったかを思い知り、頭を殴られたような衝撃を受けました。
前例が皆無の難事業
富士山剣ヶ峰に気象レーダーを建設する計画は、台風予測を目的に始まりました。1959年の伊勢湾台風時に、死者行方不明者5000人を出す惨事になったことがきっかけです。当時は現在のように気象衛星観測はありません。台風が日本に近づいても200kmほど手前にならなければ観測できませんでした。台風が北上する速度は20〜30kmのため、避難までの時間が10時間くらいしかありませんでした。富士山頂に高性能の気象レーダーが設置できれば800kmまで観測ができます。そのため、台風が近づく2日前くらいから避難を呼びかけることができ、台風被害を抑えることができるという狙いがありました。
しかし、標高3776メートルの山頂に精密機器の塊である気象レーダーを設置することなど、世界をみても前例は皆無でした。米国では2000メートルほどの場所に設置例はあったそうですが、富士山は独立峰で気象条件の厳しさは比較になりません。とりわけ、冬場は風速100メートルにもなる暴風雪が吹き荒れます。気圧も地上の3分の2ほどしかありません。地盤は凍土でそもそも建設できるのかすらわかりません。気象レーダーのデータが東京で受信できるのかも不明です。高山病の危険も常につきまといます。そもそも数百トンにもなる工事資材をどう運搬するのかもわかりません。映像資料を見ているうちに、それまでの常識をはるかに超えた建設計画だったことがわかり、目が点になりました。
顔を紅潮させて語る男たち
その中で私がとりわけ興味をもったのは、建設にあたった技術者や作業員の証言をまとめた映像です。建設の中心を担った三菱電機や大成建設の技術者、気象庁職員、資材を山頂まで運び上げる強力(ごうりき)の方たち10人ほどが当時の作業の様子を語っていました。話の内容もさることながら、印象に刻まれたのは、皆一様に、顔を紅潮させて、熱を込めて自分の仕事を語っていたことでした。
10人の口から共通して出てくる言葉があることに気づきました。「誰もやったことがない」というフレーズです。誰もやったことがないから成功するかはわからない。でもこの仕事にはやる意義がある。だからこそ、なんとしてでもやって見せたいといった語り口でした。
現場のリーダーは、大成建設の伊藤庄助さんという方でした。伊藤さんは作業に携わった数百人に次のように語りかけ続けていたそうです。
「男は一生に一度でいいから、子孫に自慢できるような仕事をするべきだ。富士山こそその仕事だ。富士山に気象レーダーができれば東海道沿線からでも見える。それを見るたびに『おい、あれは俺が作ったのだ』と言える」
なぜ「私がやる」と手を挙げられたのか
建設作業のうち、特に印象に残ったのが「鳥かご」と呼ばれる鉄骨ドームを空輸する場面です。富士山頂の極めて厳しい環境でレーダーを365日24時間稼働させるためのシェルターです。1年以上かけて精緻に設計され地上で組み立てられ、いざ輸送するときになって問題が立ちはだかりました。重量が空輸できる重さをはるかにオーバーしていたのです。
当時、ヘリで運べる重さは450キロが最大でした。しかしこのドームの重さは620キロ。重量が規定より150キロ以上オーバーしている上、富士山頂の風向風速は読めません。墜落事故もたびたび発生しており、ベテランパイロットも震え上がるエリアでした。誰もやりたがらず、空輸は不可能という結論になりかけていました。
しかし、たったひとりのパイロットだけが手をあげたのです。神田真三さんという、旧日本海軍航空隊出身の方でした。
私は映像を見ながら、とてもふしぎでした。なぜこの方だけ「やれる」と信じられたのか。
証言を聞いていると「やればできないことはないと思った」と語ります。楽観的すぎるとも感じる、その理由に驚きました。実績に裏打ちされた自信はあったのだと思いますが、命を落とす可能性の方が高い作業を「やればできる」という思いだけで踏み切れるのかということを。
神田さんはもう一つの理由として、特攻隊で失った同僚のことを語り出しました。「こっちは生き残ったから目一杯のことをやらないといけない」。
重量を超えた分は、ヘリのドアや板張りの内装、配線のカバーなどを全て取り外し、燃料も必要最小限にしました。設置場所はミリ単位の精度です。当時の映像は、今見ても息を呑むほどの緊張感です。墜落すれば山頂の作業員は即死です。5年以上の努力が瞬時に水の泡となります。
見事に鳥かごを運び、ヘリが帰路へ折り返す場面、山頂の作業員は皆ヘリに向かい両手でめいっぱい手を振りました。神田さんはヘリを着地させた後、運転席で2分ほど動けなかったそうです。山頂と地上の人がどれだけの想いと時間をかけた仕事だったのだろうかと、私は映像を見ながら胸に込み上げました。
困難な事業にこそ誇り
私はこうした証言者の熱を帯びた語り口を聞いているうち、感じることがありました。この仕事に従事していた人は、きっと幸せではなかったかと思うのです。作業自体は極めて困難であっても、全身全霊を打ち込める仕事に携わった誇りがにじみ溢れていました。私自身の個人的で率直な感想として、前例のない「常識はずれ」の難事業だったからこそ、人の心を燃え上がらせたのではと感じました。
その後、富士山頂レーダーは気象衛星にその座を譲る1999年までの35年間、日本の気象観測の中心的な役割を担いました。この事業がなければ、台風によって多くの命が失われていたでしょう。この事業に携わった人は決して著名ではないかもしれません。しかしこうした先人たちの戦いによって現代があることに、自然と深い感謝の念が湧き上がりました。
「常識はずれ」の仕事こそ輝く
旅の出会いを振り返ると、「輝く仕事」にはどこか必ず「常識はずれ」とも言える面があるように思います。
例えば、山形の米沢を訪ねた時、江戸時代の名藩主・上杉鷹山の存在の大きさに驚きました。米沢藩を立て直した鷹山の業績は偉業として現在でも尊敬を集めています。鷹山の改革は、それ以前の藩政から見れば「常識はずれ」でした。上杉家という戦国時代からの名家の名の下にあぐらをかいていたそれ以前の藩主の悪政によって、米沢藩は現在の価格にして200億円の借金を抱え、破産寸前でした。19歳にして藩を率いることになった鷹山は、屋敷の人員削減や事務作業の簡略化など、藩にかかる経費を8割削減するなど倹約を徹底しました。型式を重んじる旧来型の家老と激しく対立し、重鎮らからストライキまがいの反乱も起こされました。しかし信念を曲げることなく、織物など産業の発展や学問の拠点・興譲館の設置などを進めました。米沢藩の藩政は、江戸の模範として多くの藩主が鷹山から学びました。それまでの常識を見直し、自ら培った信念のもとに人のために仕事をしたからこそ、鷹山は今でも光を放ち続ける存在なのだと感じました。
岩手県平泉市にある平安時代の寺院・中尊寺金色堂も、まさに常識はずれの建物です。黄金に輝く御堂を目の前にすると、1000年近く前に作られたものとは思えない重厚感のある輝きに言葉を失いました。平安時代、京の都から遠く離れた山あいの平泉に、高度な文化が栄えていたことを実感し率直に驚きました。極楽浄土の姿を具体的に表現しようとした藤原清衡は、常識をはるかに超えた願いをもつ人物だったのだと感じます。
岩手の花巻に生まれた宮沢賢治も、自ら既存のレールをはずれ、己の道を生きた人でした。花巻農学校の安定した教職を29歳でやめ、自ら田畑に出て農業の道に進みました。教職を捨てた理由はいくつかの説があるそうですが「農民になれといっている自分が、俸給をもらっているのはおかしい」という考えだったそうです。土にまみれながら、彼の創作活動は輝きを増していました。イーハトーブという楽園を描いた心象世界はまさに常識を超えたものといえるでしょう。イートハーブの世界は、今では岩手の観光資源としてなくてはならないものになっています。
大分国東半島には、岩壁に掘り込まれた磨崖仏(まがいぶつ)と呼ばれる仏が数多くあります。80カ所を超える場所に400体ほどあり、全国の磨崖仏の7割が集中しています。その中でも最大級なのは、豊後高田市の山奥にある熊野磨崖仏と呼ばれるものです。全長は8メートル。見上げると巨大さに圧倒されます。国東半島は宇佐神宮と結びついた六郷満山と呼ばれる独特の山岳宗教があります。熊野磨磨崖仏はなぜ山奥を選びつくられたのかふしぎですが、その常識はずれの熱量があったからこそ信仰の場にもなったのではないでしょうか。
心ふるえる仕事 3つの共通点
各地の偉大な「常識はずれ」の仕事は、いまを生きる私たちの心をふるわせます。時代を超えて人の心をふるわせる仕事には、共通していることがあることに気づきました。私なりに考えたのが次の3つの共通点です。
・まだ見ぬ世界を、自ら生み出そうとしている
・その時代だからこその課題に向き合っている
・身につけた力で困難すら楽しみに変えている
上にあげたいずれの例も、この3つが共通していると感じます。
Myクレド事業を始めた理由
独立して8ヶ月、私はMy(マイ)クレド作りの仕事を本格的に始めました。マイクレドとは、その人個人のミッションやビジョンを言葉にすることです。企業理念の個人版というとわかりやすいでしょうか。コーチングを通じて人の想いを聴き、伝わる言葉にしています。
コーチングをしながら、あることを思うようになりました。日本人はよく「同質性が高い」「横並び」と言われます。しかし、これは表層的な見方に過ぎないと感じるようになりました。本音のところに耳を澄ませると、価値観や大事にしたいことは一人ひとり明らかに違います。想いを乗せた言葉は、一つとして同じことがありません。コーチングを通じて世の中の「常識」と呼ばれるものがなんなのか、よくわからなくなってきました。
一口に「常識」といってもいろいろあると思いますが、その多くはその時代ごとの誰かにとって都合のいい「装い」にすぎないものではという思いがします。とりわけ、政治家やマスコミ、教育といった一見「なんとなく正しそう」なことを発信している立場にある人こそ、特定の「常識の枠」に押し込めようとしているように思います。一人一人の違いを認めるより、みんな同じようなものとして扱ったほうが楽だからです。
私がコーチの仕事がユニークだと思うのは、世の中の多くの仕事が特定の枠内に押し込めるのとは逆に、枠を外す役割を担っているように思うからです。その「枠」とは根拠のない思い込みだったり、行き詰まった視点だったりだったりします。常識や世間体に塗り込められた日常に風穴をあけ、洗い流すことがコーチの仕事のように感じます。
人が最も輝くところには、必ずその人なりの「常識はずれ」があると思います。私が一人ひとりの想いを言葉にする仕事を始めたのは、ありきたりな常識の先にあるその人ならではの世界を一緒に作りたいと思ったからです。内側から出てくる言葉には、人を変える力がある。クライアントの方とともに、まだ見ぬ世界を生み出していきます。