先週末の連休、青森を4日間旅した。久しぶりにレンタカーを借りた。最新のカーナビ付きの車だ。運転中、細かく注意を呼びかける機能に驚いた。
カーナビと地下鉄のアナウンスに感じる共通点
中央線から少しはみ出しただけで、「ピピピ」という機械音で知らせてくれる。都心部ならまだしも、対向車をほとんど見かけない山道であっても即座にお知らせしてくれる。信号待ちでちょっと発信が遅れただけでも、「早く出発しろ」と忠告するように「ピピピ」と鳴り響く。右折で対向車が近づいてくると「向こうから車がきてるから早く進め」と言わんがばかりに「ピピピ」と警告する。きっとGPSやAIといった最新技術を駆使した事故を防ぐ機能が詰め込まれているのだろう。
数ヶ月ぶりの運転だったということもあり、そうした機能をありがたいと思った半面、管理されし尽くされていることに気持ち悪さも感じた。
似たような気持ち悪さは、東京の地下鉄のアナウンスで感じる。
改札を入ると、「注意」と「お願い」が途切れることなくこだまする。ホームに入ると「危ないですから黄色い線の内側をお歩きください」。電車が近づいてくると「ホームドアから手や顔を出さないでください」。乗るときには「ドアに挟まれないように手荷物をおひき下さい」「駆け込み乗車はおやめください」と。車内に入れば「揺れますから手すりにおつかまりください」「荷物が他のお客様のご迷惑にならないように、前に抱えてお持ちください」とアナウンスの嵐が吹き荒れる。
降りる時には「押し合わず、順序良くお降りください」と言われ、ようやく降りたと思ったら「危険ですので、電車から離れてお歩き下さい」という指導が入る。エスカレーターに乗ると「危ないですから手すりにおつかまりください」「大変危険ですので、駆け上がったり、駆け降りたりしないでください」と息つく暇もない。地下は、注意とお願いの三密空間だ。
幼児扱いされる気持ち悪さ
私が気持ち悪さを感じるのは、自分が幼児扱いされているように感じるからだ。言葉は丁寧かもしれないが、こと細かく「~は危険だ。~はするな」と指導されているようなもの。「押し合わず順序良く降りろ」というのは、小学生が体育の時間に「前へならえ」とか指導をされているようだ。気持ち悪さを通り越して、みじめな気分にすらなる。アナウンスをまっとうに聞けば、地下鉄がどれほど危ない空間なのかと思う。
貧乏だった学生時代、アルバイトで貯めたお金をつぎ込んでスイスを旅したときがある。印象深かったのが、町や駅での大人びた静けさだ。金融街のチューリヒは日本橋や兜町といった金融マンが闊歩するにぎやかな場所かと思ったが、石畳の重厚な街並みに音が吸い込まれていくような静けさがあった。首都のベルンの駅は人が多く行き交っていたが、アナウンスが鳴り響いていた記憶はない。少なくとも、東京の駅のようにけたたましく注意とお願いを繰り返すような騒々しさはなかった。
日本文化を在野の立場で批評するアレックス・カー氏は、そうした日本流のアナウンスの最大の特徴を「徹底した子供っぽさ」だと指摘する。それらを「公共放送中毒」と言い、日本の大人を「幼児化」させているものだという。幼児化の元をたどれば日本の教育システムが私たちに植えつけてきたものだと述べる。
「『幼稚園国家』に見られるナンセンスは度を越していて、とうてい信じられないところまで達している。戦後日本の教育システムは、日本の次世代を幼児化しようとしている。人間が自立する能力を身につけて、大人として人生に対し責任をとる以前の段階で人間性を凍結させる効果がある」
ーアレックス・カー、犬と鬼
管理されることに慣れすぎた私たち
私が注意したいと思うのは、自分を含めた私たち一般庶民が誰かに管理されることに慣れきってしまっているのではないかということだ。見知らぬものに言われるがまま、おかしさを感じずに、なんとも思わなくなっているのではないかということだ。
海外の人は日本に対して、「権威主義的な国」というイメージを持つことが多いと聞く。権威主義というのは自分以外のなにか立派そうなものを笠に着て、権威づけるといった意味がある。例えば、会社の名前や役職、または学歴といったものだ。権力のありそうなものには逆らわない「長いものには巻かれろ」といった風習のことだろう。
尊敬語と謙譲語が複雑な日本語自体に、上下関係が組み込まれているとも聞く。私たちは、世間的に自分より「上」にありそうなものには従うべきという発想が、骨身に染み込んでいるのだろうと思う。
けれど、私は疑問に思う。立場が「上」のものに従い続ける人生がおもしろいだろうか。自分が保護や管理される対象だと思い込み続ける人生に、その人らしさがいつ発揮されるのか。大人になっても、根本的なところでは幼児とあまり変わらない人生が、主体的な人生だと言えるのだろうか。
「大企業>>>起業」の顕著な日本
日本はよく起業をめざす人が極端に少ないという。フリーで仕事をする人は増えてきているとはいえ、大企業志向は根強くある。それも私たちが「保護される幼児」マインドを持ち続けているからではないだろうか。
少し前の調査になるが中小企業庁の資料によると、日本は国際的に起業無関心者の割合が圧倒的に高い。起業に関心がない人は、2012年の時点では8割近い。欧米各国が4割以下ということから見ると、大きな開きがある。
会社勤めより起業したほうがいいと言いたいわけではない。ただ、このグラフから私なりに考えるのは、大きいものにすがる生き方を選ぶ人が日本は多いということ。社会的なこと、金銭的なことなどいろんな理由があるのだと思うけれど、なぜこうした顕著な違いがあるのか、私はとても興味がある。
日本に住む私たちにとって、会社や所属する組織を辞めて独立するというのは、日本流の保護・管理される生き方からの意志ある退出の道を選ぶことだと思う。それは人生の一大転換点だ。こうして書いている自分はまだ会社員の立場なので、このことを実感を持って語ることはできない。
長いものに巻かれない人生
ただこれまで仕事を通じて、会社を辞めて独立し起業した方に何度か直接話を聞けた。どの方も、自分の言葉で自分の人生を語っていた。その言葉は、どんなに立派な大企業のトップの人がたれる武勇伝より、切実に響く言葉だった。言葉が、その人自身だった。一見安らかそうに見えるが生気の感じられない動物園の生き物ではなく、荒野で日をあびながらたくましく生きる野生動物のような精彩を放っていた。
コロナの影響で働き方や生き方を見直そうとしている人は増えていると思う。オンライン化が一層進めば、働く場所を問わなくなり、一人ひとりが自分の仕事をしやすい環境になるだろう。管理される人生にキリをつけ、あえて独立を選ぶ人もこれからもっと増えればいいと思う。誰かから言われてしぶしぶ仕事をしたり、自分の心を偽って生きたりすることは苦しいことだからだ。コロナの嵐を転機に、長いものに巻かれることを拒み、自分ならではの強みを生かした人生を選ぶ人が増えればいいと思う。
参考URL:中小企業庁「起業の実態の国際比較」
https://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/H29/h29/html/b2_1_1_2.html
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