「三方よし」本当のメッセージとは〜近江商人 徹底ルポ

500を超える川が流れ込む日本最大の湖、琵琶湖を抱く滋賀県は、江戸時代まで近江と呼ばれました。湖の東に位置する東近江は、東海道、中山道、北陸道の3街道が交わる交通の要所で、人やものが行き交った場所です。

「三方よし」という言葉をご存知の方は多いと思います。商売のあり方に関する箴言で、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という心得を説いています。ビジネスは、売る側や買う側だけでなく、社会全体にとっても良いものであるべきという教えで、環境意識の高まっている昨今あらためて光が当たっています。

この言葉は、東近江出身の商人から生まれました。近江商人は主に江戸時代にかけて全国を行脚し、商業の発展に貢献しました。現場を訪ねて取材をすると、「三方よし」というわずか4文字は、ただのビジネス用語ではなく、近江商人の生き様を深く刻んだ言葉だということを知りました。

目次

質素倹約の家のつくり

五個荘は白壁の商家が軒を連ねている

東近江の中でも最も多くの商人を多く輩出した五個荘(ごかしょう)町を訪ねました。瓦ぶきで白い壁をした古風の家屋が軒を連ねています。掘割には鯉がゆうゆうと泳ぎ回り、情緒ある風情を加えています。この街並みは1998年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。

近江商人の家の室内は簡素な作り

商家のうち数軒が見学できるようになっています。その一つ、外村宇兵衛邸に入りました。中へ入ると黒褐色の太い柱が骨組みに使われていて、重厚感ある雰囲気が漂っています。室内の装飾は、書院作りの床の間に掛け軸が飾っている程度で、簡素な印象です。

成功した商人の家は華々しい置物や装飾で飾られているのではないかと思っていたのですが、すこし拍子抜けしました。副館長の鶴田進さんに尋ねると「こうした簡素な家の作りこそ、質素倹約をむねとしてきた近江商人そのもの」と語ります。

天秤棒で諸国をめぐる

近江商人は天秤棒を担ぎ各地を回った

近江商人は、天秤棒と呼ばれる細い棒を担いで全国各地を回る商売方法をとっていました。棒の両端に取り付けた風呂敷の中には、商品の見本が入っています。各地でその見本を見せて、契約となれば現物を送り届けるというスタイルです。彼らは今でいうBtoBの卸売業で、各地の卸売業者や小売業者に販売していました。

主に取り扱っていた近江の商品のひとつは、「近江上布」(=写真)と呼ばれる織物でした。琵琶湖の東に位置する東近江は水に恵まれて湿度が高く、麻の産地だったためです。上品な掠り模様が特徴で、将軍の献上品にも使われました。

しかし、近江商人の商売の肝は、単に布を売って歩き回ることではありませんでした。各地の産品を買い付けて、需要のあるところで販売する商売活動をしていました。例えば、京都で着物の古着を仕入れ、それをニーズのある東北地方まで運んで販売していました。そして東北で仕入れた山海の珍味を、京都に戻って商売するといったことをしていました。遠くまで出掛けて品物を売って終わるのではなく、出先でも品物を買い付けて、他の場所で売るという、現在の商社活動をしていたのです。この商売方法は「諸国産物廻し」と呼ばれ、近江商人独自の商売スタイルとなりました。

近江商人の心がけは「需要と価格差」

近江商人が商売上、特に重視したのは地域の需要価格差でした。商品のあるなしを考え、必要な商品を安く仕入れ、ニーズのある場所で売っていくこと。この地道な商活動のため全国を巡りました。日本海を行き来した北前船を主導していたのも近江商人です。

それだけでなく、江戸時代初期で鎖国体制がまだ十分取られていなかった時に、安南(現・ベトナム)へと商売に渡った近江商人もいます。近江商人はリスクを取りながら事業を広げていくたくましいベンチャー気質の持ち主であったことに驚きました。

3街道が繋がる交通の要所

google mapにより作成

地域の需要と価格差を知るために何より必要なのは情報です。近江商人が情報収集に長けていたのはなぜでしょうか。

いくつか理由はありそうですが、近江地方の地理的な特性が関係しているようです。近江地方は古くから交通の要所で、中山道や北陸道、東海道の3つの主要道が交わる地域でした。戦国時代には織田信長が安土城を築き、城下町を作りました。京の都へと続く重要な場所だったのです。

交通の要所には、各地から情報が入ってきます。東近江は京都に先駆けて最新の情報に触れる機会が多くあったと考えられます。近江商人が相場感覚に優れていたのは、こうした情報の行き交う場で育ったことが関係しているのだと思います。

家訓を重視する土地柄

いくつかの商家を見学するうちに、ひとつ気づいたことがありました。居間や床の間に家訓が掲げられていることです。古い家にはよく見受けられるものですが、その一つ一つにきちんと説明がつけられています。商家ごとに家訓があり、その出典や意味について紹介されています。

私自身が、中小経営者とともに理念を作る仕事をしています。家訓とは、企業で言えば理念に相当するものだと思い当たり、とても興味を持ちました。

近江商人の理念をいくつかご紹介します。

先義後利栄(せんぎこうりえい)・・・義理人情を第一に考えて、利益追求は後回しにすることが商売繁盛につながる。

自彊不息(じきょうやまず)・・・常に自ら努めて、休まず励むこと。

近江商人は理念にあたる家訓を重視していた

積善の家には必ず余慶あり・・・善い行いをし続ければ、思いがけない喜びがおとずれる。

陰徳善事(いんとくぜんじ)・・・人知れず良い行いをしていれば必ず報われる。

利真於勤(りはつとむるにおいてしんなり)・・・商人の任務を果たして得る利益こそが真の利益である。

こうした言葉は、主に中国古典の四書五経に由来するものだそうです。私は現地に行くまで、近江商人とは商売が上手な方々というイメージしか持ち合わせていませんでした。しかし現地に身を置き、話を聞く中で、近江商人が商売倫理や道徳観を極めて高く持っていた人たちだと目を見開かされました。

「三方よし」の原点は「一切の人を大切に」

「三方よし」の原点については、意外なことを知りました。今よく言われる「売り手よし、書いてよし、世間よし」というフレーズは近江商人が作ったものではないということです。小倉栄一郎さんという近江商人の研究者が、1988年ごろに出版した書物の中で、近江商人の精神を表した造語だということです。

では「三方よし」の原典となる言葉は何だったのでしょうか。それは有力な近江商人だった中村治兵衛の次の言葉でした。

他国へ行商するもの総て我事のみと思はず、その国一切の人を大切にして私利を貪る勿れ

近江商人が生きた江戸時代は、藩を超えた自由な商売は簡単ではありませんでした。商売に出かけた先で受け入れられるようにするためには、まずは他国を利すことが求められたのです。近江商人の意義は「地域の経済の発展に寄与すること」でした。出向いた先で商品を売るだけでなくて、そこで買い付けることで地元経済が潤おいます。こうした取引が信用をうみ、近江商人は全国で商売のネットワークを広げていったのです。「三方よし」という言葉は、他国で商売をする上の知恵だったとも言えるでしょう。

寺院の数が最も多い近江

滋賀の人口あたりの寺院数は日本トップ(写真は安土城・摠見寺の仁王門)

取材を進めていると、近江商人はどうして、家訓や理念を追求していたのかをふしぎに感じました。単に重視しているというだけでは言い表せない、もっと切実なものに動かされているような思いがしてきたのです。

現地で見聞きしているうち、近江商人の精神的風土には、仏教が深く根ざしていることがわかりました。

ほとんど知られていませんが、滋賀県は人口あたりの寺院数が日本一です。国の宗教統計調査によると、人口10万人あたりの寺院数は200を超えます。なぜ滋賀県が多いかといえば、理由の一つは比叡山延暦寺の存在があげられます。延暦寺は天台宗の総本山で、日本仏教の母山とも称される寺院です。高明な僧を多く輩出してきました。仏の教えが深く根付いてきた土地柄が、倹約で質素を重んじる文化の土壌になりました。

商売は菩薩の業(わざ)

伊藤忠兵衛記念館は無料で開放されている

特に仏教との関わりを顕著に言い表した近江商人がいます。五代商社の伊藤忠や丸紅の創業者である伊藤忠兵衛さんです。伊藤忠兵衛記念館(豊郷町)に行くと、忠兵衛さんが心していた言葉が多く残されています。

座右の言葉のひとつが「商売は菩薩の業(わざ)」でした。商売とは仏の道そのものという考えです。後にはこう続きます。

商売道の尊さは、売り買いいずれをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの

伊藤忠兵衛さんは仏の道を説いた

「世の不足をうずめること」。商売の本質を言い表しているもののように思いました。ビジネスの本質は、必要なところに必要なものを届けることではないでしょうか。それは、心身の安らぎを求めるときに仏に手を合わせて願うことのように自然なことのようにも思えてきます。

私は商売とは仏の道に入るものという考えに、とても興味を惹かれました。忠兵衛さんは子供に対して「商売はやめてもいいが、仏門だけはやめてはならない」ということすら言っていたそうです。近江商人の根底には、仏教の教えが深く根付いていたことを感じました。

私は仏教に特別詳しいわけではありません。仏教や禅の泰斗である鈴木大拙氏は仏の教えの中核として「無分別の世界」を説いています。「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という言葉があるように、すべてのものに仏の心があると説きます。

こうしたことを考えると「三方よし」という言葉は、仏教に深く根ざしており、自分も相手も世の中も区別せず、皆が幸せになれるようにという願いが込められているのだと、思い至りました。

伊藤忠が育てたトヨタ

トヨタの初代社長・豊田利三郎氏も近江商人のもとで修行を積んだ

日本を代表する企業のトヨタ自動車も、近江商人に深い関わりがあります。トヨタの初代社長、豊田利三郎さんは伊藤忠商店の社員として働いていました。記念館の名簿には、その名が今も記されています。

豊田利三郎さんは、トヨタの理念をあらわした「豊田綱領」を定めた人物でもあります。1935年に発表し、現在でも全世界のトヨタグループの行動指針になってます。次の言葉です。

  • 上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし
  • 研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし
  • 華美を戒め、質実剛健たるべし
  • 温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし
  • 神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし

「華美を戒め、質実剛健」「神仏を崇拝」など随所に、近江商人の精神が映し出されているようです。世界のトヨタにも、近江商人の精神が深く息づいていることを感慨深く感じました。

著名企業をうんだ近江商人

トヨタ以外にも、近江商人に由来する企業は数多くあります。そのいくつかを紹介します。

仮に近江商人が単なる「商売人」だけの存在でしたら、現代でも重要な役割を担う企業として存続できなかったはずです。時代の荒波の中で生き残れたのは、時代を超えて響く哲学があったからこそだと思います。近江商人の理念は、それだけ普遍性を持つものだと言えるのではないでしょうか。近江商人の理念は、戦後の日本の経済や社会の発展を支えたことは見過ごせないものだと思います。

「始末して気張る」精神

「三方よし」に加えて、近江商人が共通して心得ていた理念がもう一つあります。それは「しまつしてきばる」という考えです。

割り箸も洗って繰り返し使っていた

しまつとは「始末」と書きます。これは浪費をせず質素倹約に努めるという意味を指します。例えば割り箸ひとつ取ってみても、一回きりで捨てずに洗って何度も使っていたようです。麻の布の糸クズすら捨てず、それらを集めて子供向けのぬいぐるみの装飾に使っている例もみました。

私たちが生きる現代社会は100円ショップでなんでも買えてすぐに捨てる文化です。どちらがいいのかは即答はできませんが、ものを大切にするということは生活自体を大切にすることのように思いました。丁寧に暮らしを生きることは、日常のささやかなことを大切にし、そこに歓びを見出す生き方のように感じました。私を含めて現代人の多くが見失っているもののように思います。

もう一つが「気張る」ということです。気張るとは、一言で言えば家業に励むという意味です。お客さんに喜んでもらうため、毎日毎日まじめに働くことを説いています。

気張るにはもう一つ意味がありました。それは「使うときは思い切って使う」という意味です。近江商人は社会のためになることについては、金を惜しまず投資することを美徳としていました。学校や病院の建設や橋の修復といった公共事業に私財を寄付している例が多くあります。

豊郷小学校は近江商人が私財を投じて作られた(豊郷町観光協会HPより)

具体例に、豊郷小学校があります。これは丸紅の専務であった古川鉄治郎氏が全財産の3分の2の巨額の私財を投げ打って寄贈されました。現在の価格で言うと十数億円にもなるそうです。「東洋一の小学校」「白亜の教育殿堂」と呼ばれる立派な建物です。アニメの「けいおん!」の学校のモデルになったとも言われています。

質素倹約を旨としながらも、社会のために必要と思えば思い切って使う。そこには「お金は社会をめぐっているもの」という考えがありました。ここにも転生輪廻といった仏の教えが感じられます。同時に、近江商人がもつ生き様のスケールの大きさを感じました。

「近江どろぼう」との反発も

一方で、近江商人をヤジして「近江どろぼう」という言葉もあると知りました。家訓を重視し、堅実質素をむねとした仕事ぶりとは真逆の蔑称のように思えます。

伊藤忠兵衛記念館を運営する豊郷済美会の常務理事、桂田繁さんは「近江商人が商売に長けていたことへのやっかみがあったのだろう」と語ります。他国に入って商売をしていた近江商人は、他の商売敵から見れば、自分が手にしようとしていた利益を持っていかれるという反発があったのかも知れません。

時代が変わっても色あせない理念

しかし、私が実際に現地を取材して印象に刻まれたのが、近江商人が理念にあたる家訓を重んじ、実践していたということでした。質素倹約や勤勉といった近江商人の心がけは、飾り気のない家の作りにあらわれていると感じました。取材を受けてくださった方も、知らないことがあれば適当に流すのではなく、資料にあたったり、より詳しい人に聞いたりなど、非常に丁寧に対応をしてくださったのが印象的でした。社会の変化の中で、近江商人の文化は薄れていっていると言います。しかし、先人が残した核となる理念は色あせるものではないのではないでしょうか。

「商い」を誠実に生きた先哲からの励まし

「商い」への見方を変えられた取材になりました

個人的なことですが、私は商学部の出身です。私は大学時代、自分の学部が嫌いでした。もともと、私は自然分野が好きで地理を学べる学部を志願しました。しかし志望学部に落ち、たまたま引っかかって進学したのが商学部でした。大学自体は行きたいところだったので、浪人するよりかはと思って行きましたが、当時の私が学びたいものではありませんでした。当時の私には、簿記やマーケティングなどビジネス上のテクニックのようにしか思えませんでした。授業もほとんど出ず、学友と呼べる友人も恩師と呼べる先生も残念ながらできませんでした。「商学部卒業」という名ばかりの証に対し、私は長く深いコンプレックスを持っていました。

しかし今回、近江商人を取材する中で、自分自身の「商い」への見方が少なからず変わりました。商人とは、決して私利私欲で動く人たちのことを言うのではなく、世の中で必要とされていることを見極めて、それに対して貢献していく存在だと思い至りました。そして何よりも「商い」という道を誠実に、ひたむきに生きてきた先哲の数々がいるということに心強さを感じました。近江商人に出会えたことに感謝します。

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