熊野古道をめぐった近畿10日間
11月25日、近畿の旅が始まりました。初めての紀伊半島です。どんな景色に出会えるのだろうと、胸を高鳴らせて三重から入りました。
気になっていたのは「熊野古道」の存在です。私はこれまで熊野古道という名前は聞いたことはありましたが、それがどのような道なのか正直ほとんど知りませんでした。熊野という場所へ向かう一本道があるのかな、といった程度のイメージです。しかし、インターネットで調べてみると、熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産になっています。きっと何か深い意味があるのだろうと思い、旅のひとつのテーマにしようと思いました。
伊勢神宮に参詣し、沿岸を走っていると早々に「熊野古道」という道路標識が各地で見えてきます。熊野本宮にはまだ150キロ以上あるのに、もう熊野古道が始まっているのかと驚きました。
三重沿岸の入り組んだリアス式海岸沿いを通って内陸へ入ると、険しい山道に出くわしました。片側1車線が続く瀞峡の切り立った崖沿いは、窓越しに深い谷を見下ろすと冷や汗がにじむほどです。平安から江戸時代にかけて多くの参詣者はどんな理由があってこんな険しい道を歩いてきたんだろうと、疑問が湧いてきました。
急峻な地形と数時間格闘し、深い谷を抜けると、景色は一変、悠々と流れる川の風景が飛び込んできました。まるで地獄の先に、浄土が現れたかのようです。
熊野古道の終着点、熊野本宮大社にたどり着きました。全国に3000社ある熊野神社の総本宮です。本殿は檜皮葺(ひわだぶき)と呼ばれるヒノキの樹皮を重ねて作った屋根でできており、簡素でありながらも重厚な雰囲気が特徴的です。
参詣して境内の案内板を見ると、この本宮大社は1891年に移転されたもので、それまでは熊野川の中洲にあったのだといいます。その中洲は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる徒歩10分ほどの場所だと知り、そちらに向かうことにしました。
河原の中洲に出ると、巨大な鳥居が現れました。高さ30メートルを超える日本一の鳥居です。広大な河原に、巨大な鳥居が鎮座する景色は、そこが特別な場所であることを伝えているようでした。この鳥居をくぐった先にある旧本堂の場所は、今回の旅の中でも、最も聖域に思えた場所でした。写真撮影は禁止されていたのでお見せすることはできませんが、木々に囲まれて静まり返り、密やかな空気感に満ちていました。
その神聖な場所に掲げられた案内板の一行に、意表をつかれました。
「ここは熊野詣での終着点であり、よみがえりの出発点」
「よみがえりの出発点」というフレーズに、私は目が覚める思いがしました。この地をめざした古の人の心に、触れられたように感じたためです。なぜ京都から200キロメートルある険しい道のりを、命をさらしながら往復1ヶ月かけて歩いてきたのか、私はふしぎでたまりませんでした。その大本となるコンセプトが「よみがえり」なのであれば、それは合点がいくように思えたのです。
同時に、私自身のこの旅もまた「よみがえり」なのではないかと思いました。2年前の今ごろ、私は東京の狭い自室をカーテンを閉め切り、真っ暗な部屋で週末は24時間ベッドの上でした。一言でいえば、うつ状態の日々でした。それまでの人生を激しく後悔し「生きていても意味がない」と砂を噛む以上に味気ない時間を、虚ろに過ごす毎日でした。そこからいくつかの転機があり、独立して旅に出たのです。
自分の内側の深いところには「よみがえりたい」という願いがあったのだろうと思います。その声に従って旅を続けていたら、古の人の「よみがえりの地」に立っていたのです。この地に来たのは必然のようにすら思いました。熊野川のほとりにたたずみ、天地に祈りを捧げました。
センス磨く中国9日間
近畿を抜けて、中国地方に入りました。旅も終盤です。山陰から山陽をめぐり、計9日間を過ごしました。
山陰では荒々しい日本海と大地が作り上げる奇観に目を奪われ、大山の神々しさに息をのみました。出雲の原始日本の自然崇拝の精神も心に刻まれています。山陽では広島の平和記念公園で改めて平和とは何なのかを深く考えさせられました。鞆の浦の小さな漁港、竹原の街並み、福山の古寺と現代アートの空間も印象的です。中国地方はセンスあるスポットが各地に点在しています。
とりわけそのセンスを感じたのは、倉敷の美観地区の街並みです。白壁の蔵屋敷が軒を連ね、倉敷川には小舟が浮かび、路地に入れば東京の吉祥寺に来たかのようなハイセンスなブティックが並びます。歩くだけでも、感度が高まっていくようでした。
倉敷はかつて塩田で栄え、江戸時代は幕府の直轄地となり物資の集積地として街並みが整備されました。明治時代には倉敷紡績を中心に工業の街としても発展していきました。この美観地区を支えたのも倉敷紡績の大原孫三郎ら企業家たちでした。市民や企業がともに守り、大切にしながら作り上げた街だということが伝わってきます。
大原美術館には、古今東西の美術品や工芸品が並んでいました。古代中国や古代エジプトの逸品も数多く展示されています。東京・上野の西洋美術館や東京都美術館にもひけをとらない見応えのある展示に、感銘を受けました。
日中の景観に加えて、夜の街並みも見事でした。白壁が照らされ倉敷川に映り込みます。建物と川が一体になるような情景でした。この夜の照明は世界的な照明デザイナーの石井幹子さんが、全体をデザインされているそうです。夜の街を照らす灯りにも気を配る着想のゆたかさに感じ入りました。センスの塊のような街は、日がな歩いてもまだ歩き足りないくらいの豊かな感性に満ちていました。
祈りの四国7日間
倉敷から瀬戸大橋を渡って最後の地・四国に入りました。四国では空海のゆかりの地をめぐることにしました。近畿で高野山を訪ねた時、平安の僧・空海が日本に残したものの大きさに驚愕の念を抱いたからです。
空海は標高1000メートル級の山々が連なる奥地に、金剛峯寺を中心とする宗教都市を作り上げました。永遠の修行に入っているとされる奥の院には、歴々の偉人たちの墓石がまるで肩を並べるように連なっています。時代も宗派も軽々と越え、亡くなった人々を引き寄せる場所は高野山以外にはないでしょう。高野山を「日本の異域」と表現した司馬遼太郎の言葉は、的を射ていると感じます。
香川では空海が生まれた善通寺を訪ね、空海が土木工事の指揮を取ったとされる満濃池を巡りました。1200年前の僧が今でも存在感を放っています。
空海が悟りを得たとされる高知の室戸岬を訪ねました。青年時代の空海は当時の大学を中退し、四国の山野を巡ってこの地につきました。修行に励んでいた時、明星が飛んできて空海の口に飛び込んだという神秘体験をして悟りに至ったといいます。その地である御厨人窟(みくろど)にもいきました。海に向かって口を開けたような海食洞です。ひとり四六時中、己に対峙していた空海の心はどのようなものだったのでしょう。凡人の私には到底窺い知ることはできません。
海食洞から振り返ると、まさに空と海だけの景色が広がっていました。この景色を見て自らの名を「空海」としたそうです。空海のような悟りには至りませんでしたが、四国最果ての地を訪ねることで、わずかながらも自分なりの気づきを得られたように思います。
四国でもうひとつ訪ねてみたかったところがありました。愛媛県砥部市にある坂村真民記念館です。私は真民さんの詩が大好きです。感銘で力強い言葉に、幾度となく励まされ、生きる勇気をいただいてきました。
展示館には真民さんの数多くの手書きの作品が並んでいました。手書きの文字は、真民さんの温かく己に厳しい人柄をそのまま映し出しているようでした。私が特に好きな詩は「悟り」という詩です。
悟りとは 自分の花を咲かせることだ どんな小さい 花でもいい 誰のものでもない 独自の花を 咲かせることだ
真民さんは97歳で亡くなるまで、伊予を流れる重信川で毎日未明から祈りを捧げ、自然との交歓の中から詩を紡ぎ出していたそうです。私もその景色を体感したいと思い、重信川のほとりで一夜を明かし早朝、禅を組みました。真民さんの清々しい精神を僅かながらも体感できたような気がしました。
12月22日、旅の終わりを祝福するかのような晴天に恵まれました。愛媛の西端・八幡浜港からフェリーに乗ったとき、この旅が本当に終わることを知りました。湯煙たなびく別府の景色が見えた時、ぶじに九州に戻ってこれたことに胸がふるえました。
( 5へ続く)
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