8月1日から9月20日までの50日間、北海道を旅しました。愛車・フルエール号で東京〜大阪の4往復分となる4000キロあまりを走りました。
知床半島ではマッコウクジラが海深く潜る瞬間や、親子のヒグマが海岸で魚を狙う場面に出会いました。北端の島・利尻島では360度を海に囲まれた絶景、オホーツク海沿いの海岸では緑の草原と青い海の2色しか存在しない現実離れした風景も目に焼き付いています。
数々の風景の中でもとりわけ、印象深く深く刻まれているのが、朝の光です。水平線や草原の漆黒の空が、次第に明るみ始めていく早朝のひとときに、幾度となく我を忘れてシャッターを切りました。
朝の光のセレモニー
朝の光は分刻みで変わります。朝陽が姿を見せる1時間ほど前から光のセレモニーが始まります。
変化は、墨汁を塗りこめたような闇一辺倒の東の空が、わずかに水をさしたように薄まることから始まります。薄まった闇に、わずかに赤みが加わります。闇と赤い光がせめぎあい、次第に赤みが彩度をあげて闇を追いやると、東の空の底部が橙色に色づき始めます。橙色の光は次第に範囲を広げ、輝きを帯び始めます。この頃になると、鳥のさえずりが響き始め、海鳥が海面を飛び立つ姿も見えてきます。船は朝の漁場へと急ぎます。光のファンファーレとともに、あらゆる命が動き出したかのようです。
東の空が光にあふれんばかりになった時、水平線の一点が燃え出したかのような輝きとともに太陽の最上部があらわれます、太陽は秒単位で、一定の速さで昇っていきます。人間の力を遥かに超えた世界を目の当たりにする瞬間です。
地球が誕生した46億年前から、繰り返し返し続けてきたであろうこの光景に、いくどとなく見惚れてきました。
風景写真が写すものとは
私は中学生の頃、風景写真家に憧れていました。本屋に行き立ち読みするのは、風景写真集でした。見たことのない景色に釘付けになり「いつか実際に自分の目で見てみたい」と胸を躍らせました。「風景写真家になりたい」という淡い夢は大人になるにつれて、どこかへ置き去りになりましたが、山や海に出かけては心ひかれるがままに自然の情景にシャッターを切り続けてきました。
風景写真とは、景色を撮るものだと思っていました。しかし、北海道の旅で毎朝のようにこの光のセレモニーに身を浸しているうちに、考えが変わってきました。風景写真で撮っているものは光だと思い始めたのです。なぜなら、光がなければ風景は見えないからです。光こそ、山や海や雲を映し出すものだと気づきました。
このことに気づいた時、光と言葉は同じものだという考えが生まれました。
言葉があるからこそ、考えに気づける
私は12年間の新聞記者の仕事を経て、今春からコーチングの仕事をしています。コーチングは人と人とが向き合う対話の仕事です。コーチはクライアントに問いを投げかけ、クライアントがご自身を語る言葉に耳を澄ませます。コーチとは「言葉を聴く」仕事と言っていいと思います。
コーチングの仕事を通じて、言葉があるからこそ、人はものを考えたり想いに気づけたりすることができると再認識しています。クライアントのなかに新たな考えがひらめいたり、これまでとは違う見方が出てきたとき、新しい言葉が生まれます。新たな言葉を手がかりに、クライアントの行動は変わっていきます。
行動だけでなく、感情もまた言葉によって深まります。悲しみも悔しさも、嬉しさも喜びも、言葉にあらわすことによって、内面に深く浸るクライアントの姿を見てきました。言葉がなければ、全てのものは混沌としているでしょう。自分が何を考えているのかすらわかりません。暗闇の中では、山も川も海も全てが一緒くたに見えるのと同じです。光があるからこそ姿形が見分けられるように、言葉があるからこそ考えや感情をつかめるのだと思い至りました。
同時に、クライアントの中で新たな考えや思考が深まるときに、沈黙が流れることにも気づきました。静かな一瞬は、クライアントが自分の心の内側を言葉によって浮かび上がらせようとしている場面だと感じます。それはまるで、暗闇から朝の光が差し込もうとする瞬間のようにも映ります。ふと口にした言葉は、クライアントにとって新たな光ともいえるのではないでしょうか。
闇夜があるからこそ、まぶしい光
朝の光の輝きは、夜の暗闇を知っているからこそまぶしく映ります。例えば、都会のように昼夜に関係なく明るければ、光へのありがたみは感じづらいと思います。人もまた同じかもしれません。人生の苦難にぶつかり、暗闇を彷徨うからこそ、光を取り戻した時にありがたみを実感できるのではないでしょうか。
私自身もかつて深い暗闇に落ちた過去があります。2年前、34歳で精神的どん底に陥り、生きている意味がさっぱりわからなくなりました。過去をすべて否定し、誰とも関わることを避け、休日はベットでひたすらに眠りこける、どこまでも怠惰な時間をむさぼりました。
かろうじで残る気力を支えに、自分をなんとかして立て直したいとワラをもすがる思いで取り組んだのが、価値観を言葉にするワークでした。何を大事にしているかわからない限り、いつまでも砂を噛むような日が続くことがわかっていたからです。3ヶ月かけて見出した言葉は、新たな人生を照らし出す未知の光でもありました。
自分がコーチという言葉の職業を選んだのは、その人がもともと望んでいる思いに気づき、変化への一歩を踏み出してほしいという願いがあるからです。現代に生きる私たちは、日々の仕事や生活に追われ、自分の内側を省みる時間は、意識しなければなかなか取れません。そうするうちに、世の中の「常識」や世間体に流されてしまいがちです。私は自分自身の経験からも、人は自分の内側の言葉を見つけることで、大きく人生を変えられると信じています。
内なる光に焦点
私はCTI(Co-Active Training Institute)というコーチ養成機関でコーチングのトレーニングを積んでいます。1980年代に米国でコーチングという職業分野を立ち上げた一人でもあるCTIの創設者は、コーチの役割について次のように語ります。
コーチの役割はクライアントに自らの内なる光(inner light)を思い出させ、再びそれを見つけるのを助けるだけなのです。なぜなら、光はクライアントの中に「もともと」あるからです。
(Co-Active Coaching コーチングバイブル第4版)
コーチの仕事は、風景写真家が景色の中から光を探すように、クライアントの中から言葉を探すことだと思い至りました。
その人を輝かせる言葉を探す
こうしたことを考えていると、ふと自分の会社のロゴを思い浮かべました。屋号はFULL YELL(フルエール)です。変わろうとする人にフル(めいっぱい)にエール(声援)を送りたいという願いを込めました。あわせて「ふるえる」時間をクライアントと作っていきたいという意味を掛けました。
ロゴは応援旗をイメージし、FULL YELLのFを生かした形です。旗の間に走る黄色い線は、Lを表すとともに、光を表現しました。このロゴを改めてみて、私が届けたいのはやはり光なのだということを再認識しています。
50日間の北海道の旅は、言葉は光ということに気づかせてくれました。クライアントを輝かせる言葉という光を一緒に探していきたい。そんな時間をコーチングを通じて作っていきたいと思います。