12月11〜13日、私はコーチングスクールのCTI(Co-Active Training Institute)でトレーニングを受けました。私は8月からCTIの応用コースで学んでおり、今回は4段階ある応用コースの3つ目です。感情を主なテーマとする内容でした。
具体的なコース内容は守秘義務の関係で詳しくは公にできませんが、一個人として私が学び、考えたことを書きたいと思います。
「心はコントロールするもの」ではない?
このコースの初日、ファリシテーターの方からこの3日間は「感情」について扱っていくと聞き、おもしろそうだなと感じました。私自身、20代のころ感情の浮き沈みが大きく、悩んだ経験があり、心をコントロールすることに興味があったからです。このコースを受講するにあたり、私の学びの関心は、嫌な感情になることなく、どうすれば感情の起伏を抑えて、心安定させることができるだろうという点に向けられていました。
しかし、初日そうそう、私が持っていた「心はコントロールするもの」という考えが覆されるような思いになりました。「感情とは動くエネルギー」という言葉に考えさせられたからです。Emotion を Energy in Motion と捉え、感情自体に良いも悪いもないという話に、はじめはよく分からないながらも、だんだんと確かにそういう考えができるかもしれないなと思い始めました。もし、感情がエネルギーなのであれば、それは抑えつけるようなものではなくて、自然のままにそれを活かすやり方があるのかなと関心の方向が変わりました。
あわせて興味をかき立てられたのが「感情とは今この瞬間にしかない」という話です。私たちが「いま、この瞬間生きていること」を実感できるのは、心の動きや体の感覚によるものだそうです。言い換えれば、頭の中でいくら考えても「いま」は決して実感をもって迫ってこないということでしょう。
そうした話を聞いていると、私が「いま、この瞬間」を感じ切れたと思う時はどんな時だろうとふと思いました。たとえば、私は趣味で山登りを続けているのですが、ただただ深い山の茂みを自分の吐息と鼓動だけを感じながら黙々と歩いているときに生きている実感を覚えます。登山道に入って歩き始めてしばらくはアタマで何か考えごとをしていても、1時間くらい経つとだんだん頭の中が空っぽになっていくように感じがして、ただただ一歩ずつ歩いているだけの自分に気づきます。その時には、心も体も頭も一体になっている感覚になります。
また心ひかれる小説を読んでいる時、読むことだけに没頭している自分がいます。私が好きな山崎豊子さんや松本清張さん、小池真理子さんらの作品を読んでいる時、アタマで何か考えているというわけではなく、文字を追って浮かぶ情景に心を奔放に動かされている感じがします。その情景に涙したり笑いを堪え切れなかったりと体の反応もついてきます。
滝行で感じた圧倒的な「いま」
最近、とりわけ「いま」を感じられた場面として滝行を思い浮かべました。コーチ仲間と一緒に、東京・奥多摩の天光寺という真言宗のお寺が提供する滝行の半日プログラムに参加しました。12月の寒風が吹く中、白い装束一枚だけを身にまとい、小天狗滝という本当に天狗が出てきそうな深い山奥に流れる滝に向かいました。滝は落差30mほどで、水温は5、6度。付き添いの僧侶の指示に従って、心臓に負担をかけないように胸や肩にまず水をかけ、そしておけで頭から水を思い切りかけます。いざ滝に打たれ、そして滝壺に肩まで浸かった瞬間、私は「やばい」と感じました。凍えるほどの冷水が身体の中心部まで襲いかかってきたからです。
意識を失わないようにするために僧侶が「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」というお経を唱えるのにあわせて、私も絶叫します。聞こえるのは滝の轟音と、お経だけです。1秒1秒が狂いそうになるほどの実感で迫ってきます。頭で何か考えをこねまわす余裕は一切ありません。ただただ生きて終えたいという一心だけがありました。
2分間の体験でした。時間にしてみればわずかだったかもしれませんが、そこには圧倒的な時間の濃さがあったと思います。1秒1秒が長く、実感を持って迫ってきました。終えてみれば、ただただ純粋に「いま」だけに向き合った2分間だったのと感じます。滝行を終えた後、私はなんだか自分の存在が少し濃くなったような思いがしました。
滝行はすこし極端な例かもしれませんが、自分なり「いま」を身をもって感じられた経験を振り返ると、何かに心奪われて夢中になったり、身体を思い切り動かしたりしているときです。その時に頭と体と心が一体になるのでしょう。
逆の状態を考えると、例えば仕事用のスマホに会社から連絡がきてないかいちいち心配しながらチェックしたり、また手持ちぶさたの時にSNSをとりあえず開いて眺めたりする時間は、ずいぶん密度が薄いものだと感じます。その上、流れる時間だけは早く感じます。密度が薄い時間があっという間に流れていくと、ただただ徒労感のようなものだけが残ります。「いま」があっという間に流れてしまったなという思いがします。
サビついた心のフタを開く
この3日間は「いま何を感じているのか」という問いかけが繰り返され、そして感情と身体の動きは繋がっているということを学びました。例えば、悲しい時には姿勢がうつむき加減になったり、声のトーンも曇りがちになります。頭でこうしようと思っても、本心ではそんなことしたくないと思っていれば、身体がついてこないこともよくあります。身体の反応は正直なので、コーチとしてはクライアントの言葉だけでなくしっかり身体の動きを見守ること、そして感情を味わうために身体を使うことを促していきたいと思いました。
頭と心と身体のことを考えていると、精神科医の泉谷閑示さんが著書で語っていたことを思い出しました。泉谷さんはうつ病などの精神的な病の患者を数多く診てきた経験から、心の病は頭と心が離れている状態だという話を何冊もの著書で伝えています。
著書でたびたび紹介されるのが右のイラストです。頭と心と身体がそれぞれ部屋のように別れています。心の部屋と身体の部屋はつながっています。心と身体はほとんど同体であることを示しています。
一方で、頭と心はつながっているようにも見えますが、ポイントはその間に開閉式のフタがあることです。心の声を聞かずに頭が上からそのフタを閉じてしまうと、頭 vs 心・身体という状態になってしまうのです。頭と心が分離された状態が続くと、心身に異常をきたすのだといいます。うつ病などの心の病が一例です。
泉谷さんはこのイラストをもとに次のように語ります。
人間を一つの国家にたとえてみると、現代人の多くは「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。「心=身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてくれますけれども、その我慢が限界にくると、なにがしらの反乱を起こしてきます。たとえば「心」がストライキを起こせば、うつ状態になりますし、暴動を起こせば躁状態や感情の爆発が起きる。
「普通がいい」という病、泉谷閑示、講談社現代新書
いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民族を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。本来、人間の中身は「心」=「身体」の方なのだということを、「頭」はわきまえる必要があります。「心」=「身体」は「頭」などが及びもつかない深い知恵を備えているものです。
私がこのイラストを実感を持って感じているのは、自分自身が昨年1年間、ほとんどうつ状態だったためです。そうなったのは、心の声を無視してアタマばかりで考えている状態を長年続けてきたからです。心と身体が悲鳴をあげて、ストライキを起こしたのです。心と身体が、長年君臨し続けていたアタマに「もうお前のいうことは聞かないぞ」と逆襲を仕掛けたのです。心と体のアタマへの暴動によって、私はようやく閉じ続けていたフタを開きました。私自身の中にあったアタマと心の交流を阻む「ベルリンの壁」が崩壊したようなものでしょうか。
似たような話をこのプログラム中でも耳にしました。会社員としてあくせく働きながらも「何か違うのではないか」と拭えない違和感を持ち続けていたそうです。私は、おそらく少なくない方が、似たような違和感を持っているのではないかと感じます。「やりたいこと探し」に関する本がいま年齢関係なく売れていると聞きます。情報にはいくらでもアクセスできる社会になりましたが、その分迷いも多くなり、そして人生を選びきれない人が増えているのではないでしょうか。天光寺の僧侶によると、滝行の参加者は年々増えているそうです。それは、アタマと心が分離しがちな現代人が、閉じてサビついた心のフタを荒行によってでも開けようとする切なる思いのあらわれではないかと思います。
18歳にできた「感情のしこり」
感情についてを自分なりにもっと理解したいと思い、コースを終えた3日後の私のコーチとのセッションで今回学んだ「プロセスコーチング」お願いしました。
私の中で長い間、感じることを避けてきた感情があるように思えたからです。それは18歳、高校3年生の大学受験で、希望の進路が叶わなかったという経験です。
私は高校生の時、地理が大好きでした。山の麓の小中学校に通ったということもあり、地形や気象などに興味をひかれていました。北九州随一のヤンキー中学で野球ばかりしていた私が野球推薦で運よく進学高に入り、あまりにお勉強ができる同級生に衝撃を受け、1教科だけは負けないものを作ろうと思った時に、地理に出会いました。高校時代の私にとって地理は勉強というよりは、遊びに近い感覚でした。「世界ふしぎ発見」が大好きで、美しいミステリーハンターのお姉さんが紹介する世界各地の壮大な風景や奇観に釘付けになっていました。いつか自分もこんなところに行ってみたいなと、10代の私は胸を高鳴らせていました。
熱望していた進学先があり、実際に判定も十分だったのですが、願いは叶いませんでした。志望していた大学の別の学部に引っ掛かったため、そのまま進学しました。大学自体は行きたい大学だったので、すこしカッコつけるところのある私は、友人に「行きたいところに行けなかった」とは言いたくなく、大学受験自体を長い間「成功した」と思い込むようにしていました。それは、別の見方をすれば、ほんとうは学びたいことを学べなかったという、悔しい思いと向き合うことを避けてきたのです。そのどんよりとした感情は、波のように押しては寄せてを繰り返し、私の中には簡単には拭えない「感情のしこり」が長年付きまとっていました。
コーチとのセッションではその付きまとう感情にあえて向き合いました。「進路の希望が叶わなかった」という思いに浸った時、私の口からこぼれた言葉は「がっかりした」でした。こんなに率直な一言が出てくるとは思っていませんでした。涙も流れました。
目を閉じているとまぶたの裏に、冷たい雨の降る森でひとり体を震わせている情景が浮かんできました。コーチの問いかけを手がかりに、その冷たい森をさまよい歩きました。本降りになってきた雨を避けようと、大木に腰掛けました。周りの寒々とした景色を眺めながら、とりあえず水筒のお茶を飲もうと思い、一口飲みました。すると少しだけほっとした気分になり、あたりも暗くなってきたので、とりあえずこの一晩はこの木の下で眠ろうと思うようになりました。こんな場面に浸りながら、刻一刻と感情が変わっていくのを感じていました。コーチが重ねる「いまどんなことを感じているの」という問いに内省を促され、30分くらいでしょうか、心の森を散策した最後の方で、出てきた言葉は「もういいや」という一言でした。
置いてけぼりの感情を抱きしめる
「がっかりした」という言葉も、「もういいや」という言葉も、水がコップからあふれるようにごく自然に出てきた一言でした。そのコーチングを通じ、私のなかにあった「がっかりした」というネガティブな気持ちもまた、自分の一部分なんだなという思いがしてきました。「楽しい」とか「嬉しい」といったポジティブな感情じゃないからといって、追っ払うものではきっとないのだろうなと思うと、17年間、置いてけぼりにしていた感情が、自分の内側で融合されていくような感覚になりました。翌朝、起きてみると普段感じる孤独感が湧いてこなかったのは、自分にとって意外なことでした。
学校や仕事に忙しい私たち現代人は、理性が主役で、感情は脇に置いておくものという考えを持ちがちです。しかし、もっと私たちはひとつひとつの感情を味わいながら生きていっていいのかもしれません。どんな状態の赤ちゃんでも親は抱きしめるように、私たちもどんな感情でも無視したり追っ払ったりするのではなく、しっかり抱きしめることが自分自身を大事にすることなのでしょう。そうすることがきっと、豊かで味わい深い人生につながっていくのだと思いました。
「感じることは、生きること」。私がこのプログラムで学んだことです。学びをともにした26人のコーチの仲間たちに深く感謝します。
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