11月18日から20日の3日間、石垣島で「森のリトリート」と呼ばれるプログラムを体験しました。日本最南端の島の森で、自分自身を見つめ直す時間を過ごしました。あくせくした日常から切り離された森の3日間は「空白の時間」とも呼べる未知の体験でした。
「リトリート」は最近ときどき耳にする言葉になりました。しかし、わかったようでわからない人も少なくないと思います。なんだか怪しそうな印象をもたれている人もいるかもしれません。この記事ではリトリートに関心のある方に、実際に体験した観点からお伝えしたいきたいと思います。
「森のリトリート」は株式会社森へが提供しているリトリートです。リトリートはいろいろな形があるため、あくまで参考例の1つとして捉えていただければと思います。また、参加者同士の具体的なやりとりについては守秘義務があるため、対話などの詳細な内容についての記述は控えます。森のリトリートに関する公開情報と私自身の体験談をベースにしてご紹介したいと思います。
目次
リトリートに興味をもったきっかけ
「森のリトリートってなんだろう」。私は2年ほど前にコーチ仲間から初めてその存在を聞いて以来ふしぎに思っていました。どうやら森の中で過ごす時間のようです。実際に体験した仲間から話を聞くと、日中は森の中でじっと過ごし、夜は焚き火を囲む時間だということです。
森の中でじっと過ごす時間にどんな意味があるんだろうという疑問が、最初に耳にした時の感想です。私は山歩きが好きで、キャンプにはよく出かけます。キャンプとリトリート、なにが違うのかよくわかりません。
それがふしぎなだけに、気になっていました。今回のタイミングで参加することに決めたのは、私自身がコーチングとアウトドアを組み合わせた場を作りたいと考えるようになったためです。
私は今年4月から京都芸術大学の大学院に在籍して、仲間とともに新しい価値をデザインする研究をしています。「森のリトリート」はよくわからないながらも、自分がこれからつくっていきたい世界と重なるところがあると思うようになりました。石垣島リトリートが開かれることを9月に知り、思い切って申し込みボタンを押しました。
参加する直前の迷い
参加する間際になって、私は実際に行くかどうか迷いが出てきました。プログラムが始まるちょうど1週間前の11月11日に、私はそれまでの個人事業を法人化して合同会社を設立したからです。会社を立ち上げたばかりで、行政的な手続きや事業の告知などやることはたくさんありました。仕事から離れている場合ではないのではと思いました。
しかし、やはりこのタイミングだからこそ何か意味があるのではと思い、行くことに決めました。11月18日の早朝、冷え込みが強まる晩秋の京都を発ち、関西空港から飛び立ちました。2時間45分のフライト後に石垣島に降り立つと、季節が逆戻りしたかのような南国の海と空が広がっていました。
リトリートってどんな意味?
リトリートについて、私は実際に参加するまでは、正直よくわかっていませんでした。リトリートと聞くと、なんとなく「癒し」とか「のんびり」といった印象をもっていたくらいです。なんとなく流行りの用語のような感じもして、特別良い印象はもっていませんでした。
オリエンテーションの話を聞くと、リトリートにはいくつかの意味があることを知りました。もともとは軍事用語として「戦いの第一線から離れる。前線から退く」ことを指していたそうです。そこから、静かで安全な場所に移ることや「考え方や物の見方を変える」といった意味に広がり、「Re-Treat」として「自分を扱い直す。自分を整える」ことを指すようになったようです。
説明を聞くと単に「癒し」とは異なる質感の意味合いがあると感じました。なんとなくのんびりするというよりかは「意図的に日常から離れる」といったむしろ積極的な時間の過ごし方のように思えました。
参加者として集まった私たち4人は、普段身につけている時計とスマホを宿に置き、亜熱帯のシダの木々が生い茂る石垣島の未知の森の中へ足を踏み入れました。
森の3日間でした2つのこと
森の3日間でしたことといえば、シンプルにたった2つのことです。静かに内省することと、森で感じたことを他者と分かち合うことです。
時計を外し、森の中にたたずむと、時間の感覚がまるでわからなくなります。人間が決めた時間のルールの枠外にある「空白の時間」が流れていました。
「なにもしない時間」に、心に刻まれるインパクトがあるとは思ってもみませんでした。石垣島の森は、生命力あふれるその姿そのままに、混沌と再生の時間を生み出してくれました。
1日目の森:ふたつの流れに出会う
初日、森へと入ります。湿り気を含んだ森の空気をゆっくり大きく吸い込むと、身体が都市モードから森モードに切り替わっていくようです。森をわかつ川を渡ると、ジャングルのような草木が生い茂る世界が広がっていました。
私たちはこの広大な森の中で散り散りになり、直感的にピンとくる場所をへ向かいます。「考えるよりも感じること」を意識しながら自分の場所との出会いを探して歩きだしました。
私は川の流れている方へ吸い寄せられるように、茂みをかき分けていきました。川の流れを見つけ、付近にちょうど一人分が横われるくらいのスペースを見つけました。そこで過ごすことに決めました。
腰を落ち着けて、水筒に入れた水を一口飲みました。川のせせらぎと鳥のさえずりだけが聞こえます。前日まで慌ただしく過ごしていたのが嘘のような静けさです。
しばらく水の流れをぼんやりと眺めていると、ふとひとつのことに気づきました。そこはふたつの水の流れが合流している場所でした。川と呼ぶほどには太くない流れがひとつなり、川を作り出しています。
水の流れを見ているうちに、心に浮かんできたことがありました。私は、誰かと何かを一緒にすることにずっと苦手意識をもっていました。単独行動を好み、なんでも一人でやろうとするタイプでした。しかし、今から約3年前の34歳の時に、仕事の悩みからそんな自分に内面的な行き詰まりを感じ、精神的どん底に陥りました。
その精神的に苦しかった時期に、たまたまコーチングに出会ったことをきっかけにして、私は少しずつその苦手意識を手放せるようになり、だんだんと人と一緒に何かをすることに喜びを感じるようになりました。芸術大学の大学院に進学したのも「誰かと一緒に何かを生み出す」ことに挑戦したいと思ったためです。
ふたつの水の流れが一つになって新しい川を作る情景と、「誰かと一緒に何かを生み出す」私のテーマがふしぎと重なっていることに気づきました。偶然とはいえ、この場所にたどり着いたことがもしかすると大きな意味があるのではという思いが湧いてきました。
思いもよらない感覚に身を包まれているうち、時間の終わりを告げる笛の音が聞こえました。森と出会った1日目がふしぎな余韻とともに閉じていきました。
2日目の森:なぜ川の流れが逆方向に?
2日目も森に入ります。前日と同じように茂みをかき分けて、昨日の場所へと向かっていきました。
なんだか昨日よりも茂みが濃い気がするなと思いながら川に出ると、目を疑う光景があらわれました。川の流れが、なぜか昨日とは逆なのです。昨日は川に向かって立つと右から左へ流れていたはずなのに、今日は左から右へと流れているのです。
「どうして川が逆方向に」。自分の目を疑いました。私は長く山歩きをしていたこともあり、方向感覚には自信があります。しかし、どう考えても川が昨日とは逆に流れているように見えます。石垣島の森の中でひとり、うろたえました。この深い森が、一気にミステリアスなものに見えてきました。
混乱している自分に気づき、まずはどこか落ち着ける場所を見つけようと思い立ちました。付近をさまよっていると、一人分横たわれるスペースがあります。そこに銀マットを敷きました。前夜、眠りが浅かったこともあってか、また混乱したのもあってか、ぐたっと横になるとすぐに眠りに落ちました。夢うつつに川の流れる音だけが聞こえます。
どれくらい経ったのでしょうか。遠くで笛の鳴る音が聞こえました。午前中の終わりの時間を知らせる合図です。自分がどこにいるのかわからないながらも、音の鳴る方を手がかりにふらふらと他のメンバーが集まる場所へ歩いていきました。一番最後に到着し、仲間の顔を見ると、ようやく少し正気を取り戻せた気がしました。
森で昼食をとり、午後の時間が始まりました。ミステリアスな森に怖さも感じながら、再び川の方へ向かうと、やはり川の流れが昨日とは逆です。自分が昨日見た景色は幻だったのでしょうか。
身を置く場所を探して水辺を歩いていると、川の流れが勢いを増している場所を見つけました。そのそばに、ぽっかりとひらけた場所を見つけました。何か惹きつけられるものを感じ、腰を落ち着けました。
水しぶきを上げる川の流れを見つめました。ただただじっと、流れるままの時間に身を委ねます。
だんだんと、心に浮かんでくることがありました。仕事についてです。私は1年半前、12年間務めた新聞記者を辞めて独立しました。個人事業主としてスタートするにあたりつけた屋号が「フルエール」です。
川の流れを眺めながら、「フルエール」というこの屋号にした経緯について時間をさかのぼるように考え始めました。
思い返すと、この屋号は、私が長年抱えていたコンプレックスが原点にあることに気づきました。私は大学時代以来、心がやや不安定な時期がたびたびありました。もとをたどれば、大学受験の「失敗」にあります。私は高校生の時に地理が大好きで、熱望していた進学先がありました。判定も良かったのですが、願い叶わず不合格となり、たまたま同じ大学で引っかかった商学部に進みました。当時の自分にとってもっとも関心のない学部でした。
その時以来「自分の軸はなんだろう」と迷う人生が始まりました。その迷いは長年つきまとい、新聞記者になってからも「自分は本当は何がしたいのか」という悩みが、寄せては返す波のように心を締め付けるようになりました。
そうした人生の迷いがピークに達したのは34歳の時です。ほとんどうつ状態となり9ヶ月、仕事が休みの週末はベッドから動けずにいました。「これまでの人生の延長上に、自分の幸せはない」と確信しました。
自分の価値観を真剣に考えようと思ったのはこの時です。偶然見つけたコーチングプログラムで徹底的に過去の自分を洗いざらい見つめました。ひとつひとつ大事にしたいことが言葉になっていくにつれ、長年不安定だった自分の軸がすこしずつ定まっていくように感じられました。それはまるで、バラバラになった自分の破片を組み上げ直し、新しい形にしていく作業のように思えました。
この経験がその後、コーチの道を選んだ原点にあります。自分自身がいわゆる「良い大学、良い会社」という世間的なレールの上を進みながらも、心深くでは葛藤し迷い続けてきたからこそ、人知れず内面的な違和感を抱える人の苦しさに共感することができます。
フルエールは「世間体から自然体へ」というテーマのもと、心ふるえるほうに挑む人を、めいっぱい応援(フルエール)したいという、私の心からの願いを込めてつけた名前です。法人化したのは、個人事業という自分限りのあり方を手放し、この時代に生きる人とともに心ふるえるほうへ進んでいきたいと思ったからです。
「フルエールでこの時代にめいっぱいに挑戦するぞ」。波しぶきが音を立てる川に向かって、気づけばそんな思いをを叫んでいました。
その夜、海辺に出ました。焚き火を囲みながら、それぞれに森で感じたことや出会ったことについて語らいます。互いの体験を聴きあい、分かちあい、静かに石垣の夜は暮れていきました。
3日目の森:はじまりの場所を探して
あっという間に最終日がやってきました。私は、なんとしても初日の場所にたどり着きたいと思い森に入っていきました。
確実にその場所に行きたいと思い、あえて川をさかのぼるルートをとり、川沿いに勢いよくはみでた枝葉をかき分けて進みます。11月とはいえ亜熱帯の森はじんわりと汗が滲むほどです。数十分のぼると、初日にまさに見た景色が見えてきました。2つの流れが重なる場所にたどり着きました。初恋の人と再会できたような心ときめくような気持ちが湧いてきました。
最終日、私たちは渡された便箋に、自分宛の手紙を書きました。未来の自分に届くメッセージです。
私はふしぎと、その手紙に書くことは必ず実現できそうだという確信のようなものがありました。仕事のことやプライベートのこと、それをひとつひとつ書き付けていきました。それは森とつながった自分の心自体を、言葉に変えて刻み込むような作業でした。
私は2つのことを誓いました。フルエールを実践することです。言い換えれば、私自身が心ふるえる生き方の実践者でい続けることです。もう一つは、なんでも一人でやろうとする古い自分を手放すことです。仲間とともに新しい価値をこの時代に生み出していくことを森と約束しました。
石垣の森は、時間の流れを忘れさせてくれました。まるで1週間くらい森にいたかのようでした。手紙を書き終え便箋に入れるとともに「空白の3日間」は幕を閉じました。
現代における「リトリート」の意義
振り返ってみると、森で過ごした3日間は、今の私にとって最も必要な時間だったと感じます。慌ただしい時間から意図的に離れることで、自分にとって最も大切なことを再確認できたからです。
私を含めて都市で働く人の多くは、日々にやることに追われて心に余裕なく過ごしがちなのではないでしょうか。仕事では短期的な成果を求められ、世間的な評価に一喜一憂し、心落ち着く時間を取りずらい情報社会はさらに慌ただしさを増しています。
リトリートとは、半強制的に日常から切り離された時間を過ごすことです。半永久的に「何かをすること」に急き立てられる現代社会において「なにもしない時間」は大きな意味や価値を生み出しうると思いました。
このリトリートでは対話の中で「サイン」という言葉がたびたび出てきました。森から受け取るメッセージといった意味合いで使われているようでした。
森のリトリートを創設した山田博さんは著書の中で「サイン」について次のように語ります。
「心が捉えるものはその時で、いつも違います。それは、その時の自分でしか出会えない、その場所だけの〝サイン〟です。サインの中には、そのタイミングで自分に必要なメッセージが入っています。まるでメッセージ入りの宝箱のようなものです」
「森のように生きる」p.16
リトリートとは森の中で人が「再生のサイン」を見つける時間なのかもしれません。何をサインに感じるかは、参加する人の状況次第なのでしょう。サインはもしかすると、森だけではなく日常の中でも見つけられるものなのかもしれません。
リトリートとキャンプはどう違う?
私はこれまで、キャンプとリトリートの違いは、正直よくわかりませんでした。キャンプ場でゆっくり過ごすこともまたリトリートなのではないかと思っていたからです。
しかし3日間を通じて感じたのは、キャンプは一人でもできるけれど、リトリートは一人ではできないということです。キャンプは「ソロキャンプ」ができますが「ひとりリトリート」は難しいと思います。なぜかといえば、キャンプが何か行動することを重視しているのに対し、リトリートとは内省の場作りに重きを置いているように思うからです。
今回、リトリートの場を作ってくださった3人の方は、一人ひとりの話を丁寧に引き出してくれたり、万一けがをした場合に備えていてくれたり、心あたたまる食事を丁寧に作ってくださる方たちでした。だからこそ、私たち参加者は安心して「何もしない」ことができたのではないかと思います。そうした場作りが、リトリートの本質にあるように思いました。
「何もしない時間」のインパクト
リトリートは、詩的な表現を使えば「心の声を聴く」時間なのだと感じました。日常ではかき消されがちな、静かな内なる声に耳をすませる時間のように思いました。リトリートが「ゆっくりと静かに感じること」を大事にしているのは、そうした小さな声に耳を傾けるためなのだと思います。
心の声に気づくことは、時に大きなインパクトをもたらします。コーチングでも言えることかもしれませんが、普段私たちを縛り付けている「こうすべき」「こうしなくてはならない」という考えをいったん脇に置いたところから、その人が本来望んでいる「こうしたい」「こうありたい」といった声が聞こえてくるからです。その考えや気持ちに気づくことから、変化が始まるのだと思います。
自分の考えや気持ちに気づくことがなぜ大事なのか。それは、私たち一人ひとりが見ている世界は、自分自身の考えや気持ちによって変わるからです。
谷川俊太郎の詩に次の作品があります。
私がなにを思ってきたか
谷川俊太郎「こころの色」
それがいまの私をつくっている
あなたがなにを考えてきたか
それがいまのあなたそのもの
世界はみんなのこころで決まる
世界はみんなのこころで変わる
「何もしない時間」がインパクトをもたらしうる理由は、自分の考えに変化が起きることによって、自分の見ている世界が変わるからだろうと思います。変化は誰かから与えられるものではなく、自らの内側から起こしていくものなのではないでしょうか。
内省が変えていく未来
思い返せば、私は会社を辞める1ヶ月前に、たたみ半畳の部屋に1週間こもる「集中内観」という体験をしました。今回のリトリートは会社をつくって1週間後に参加しました。会社を辞める時と、会社を作る時という、人生の大きな節目で内省の時間をもてたことは、とても大きな意義があったと実感しています。
キャリア形成などに関する最新の研究では、仕事観や信念の形成において内省のプロセスが欠かせないことが明らかになってきています。私たちは内省が未来を変えていく力にもっと目を向けてもいいのかもしれません。
石垣島の森の3日間は、新しい未来に向けた心ふるえる時間になりました。リトリートの場を一緒につくってくださった皆さまに深く感謝いたします。
参考資料
山田博「森のように生きる」ナチュラルスピリット
谷川俊太郎「さよならは仮のことば」新潮文庫
内省が信念や仕事観を形成する研究事例(廣松ちあき、2020年)
森のリトリート のHP
フルエールの名前の由来の記事(2021年4月10日)
集中内観の体験ルポ(2021年2月19日)
フルエール合同会社(代表・安倍大資)では「あなたの【ふるえるワード】を見つけよう!自己理念 無料体験セミナー」を開催しています。詳細はこちらをどうぞ。