「経営理念」という言葉に、どのようなイメージを浮かべますか。
日々向き合うべき大切なものと考える方もいらっしゃると思いますが、どちらかといえば「立派なこと書いてるけど近寄りがたいもの」や「絵に描いたモチ、結局は理想論」といった声も聞こえてきそうです。経営者の方の中にも、理念は日々の仕事には意味がないと考える方も少なくないかもしれません。
しかし、経営理念とは本当に「ただの理想論を振りかざしているだけ」のものなのでしょうか。名経営者と呼ばれる人の著作を読むと、決してそうではないことがわかります。逆に、経営理念と日々向き合いながら大切にし、日々の具体的行動に落とし込んでいる企業ほど、世の中に長く価値を与え続けている存在になっています。
今回はその代表格であるパナソニック(旧・松下電器産業)の創業者、松下幸之助氏(以下、「幸之助」と表記します)を取り上げたいと思います。幸之助の著作の中には、繰り返し「理念」や「志」の話が出てきます。
「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助自身はなぜ理念を最重視したのでしょうか。また理念を導入する前と後とでは何が変わったのでしょうか。そしてどのように理念を浸透させていったのでしょうか。パナソニックミュージアムの松下幸之助歴史館(大阪府門真市)を訪ました。
目次
「道」の励まし
歴史館に入ると、まず一番に展示されているのが「道」という題の一編です。幸之助は経営者としての実践の中から、経営の枠を超えて私たち一人ひとりが生きる指針となる数々の言葉を残しました。この「道」という一編は、幸之助が当時51歳の時に立ち上げたPHP研究所の機関紙に掲載されたものです。「自分には自分に与えられた道がある」から始まるこの一編は、この累計500万部を超える幸之助の大ベストセラー「道をひらく」の著作の冒頭に掲げられている言葉でもあり、時代を超えて多くの人の心を奮い立たせ、励ましてきました。幸之助の言葉の中でも最も知られているものかもしれません。
土曜日の午前中、静かな歴史館の中でこの展示の前にたち、ふと声に出して読んでみました。
「今立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。自分だけにしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか」
優しさと厳しさをあわせもって語りかけるような言葉を口に出すと、幸之助自身がそばにいるような気配を感じ、思わず背筋が伸びました。
「会社は社会からの預かりもの」
館内では幸之助が和歌山で生まれ、94歳で生涯を終えるまでの歩みが、実際の製品や画像や動画、言葉とともに紹介されています。
私はいま中小企業の経営理念を経営者の方とともに作る仕事をしています。幸之助が、なぜ理念を重視したのか、その経緯はどのようなものかといった点に着目して、館内を回ることにしました。
幸之助は1917年、23歳の時に大阪電灯(元・関西電力)をやめて、創業します。創業メンバーは幸之助と妻、妻の弟の3人でした。在職中から研究していた簡単に電球を取り外せるソケットを開発し、その後もアイロンや自転車用の電灯など画期的な電気製品を世に送ります。館内に並ぶ製品を見ていると、経営者というよりもむしろ腕利きの技術者という印象を感じます。
幸之助の経営理念として広く知られるのが「水道哲学」です。「水道の水がタダ同然で飲めるのは流れる水の量が多いからだ」という考えをもとに、安くて良いものを安定的に多く生産することで、物質的に豊かな世界を作ると言うことを宣言した内容です。水道哲学を打ち立てたのは、幸之助が37歳の時、創業して15年ほどたった時のことでした。
幸之助が理念自体に関心をもったのは創業して10年ほどたった30代前半の頃だったようです。そのころ、従業員数が300人にまで増えていました。3人で始めた会社が大きくなり、多くの従業員が働く姿を見て「松下電器は社会からの預かり物である。忠実に経営し、その責任を果たさなければならない」という思いが湧いてきたそうです。
信者が仕事に打ち込む姿に感化
理念を作る決意が生まれたエピソードが印象的でした。37歳の時に知人の紹介で、ある宗教団体の本部にでかけたのがきっかけだそうです。そこで、信者が熱心に仕事に打ち込んでいる姿に胸を打たれたそうです。信念をもとに、家屋を修繕したり地域の清掃活動に励む姿を見る中で、次のような考えが浮んだといいます。
「宗教は悩んでいる人を救い、安心を与え、人生に幸福をもたらす聖なる事業である。われわれの事業経営もまた、人間生活の維持向上に必要不可欠な物資を生産する聖なる事業ではないか」
同時に「これまでは単なる商習慣で仕事をしていた。それでは誠に不十分だった」という考えに至ったそうです。幸之助が宗教団体の本部に出かけたのが仕事の一環なのか、たまたまだったのかはわかりません。しかし、人は心を揺さぶられたときに新しいものを生み出そうという思いが湧いてくるのではないでしょうか。幸之助にとっては、ひたむきに仕事に打ち込む信者たちの出会いが大きな意味をもったのだと知りました。
出会いをもとにした理念の中核は「産業人の使命は貧乏の克服である。そのためには、物質の生産につぐ生産をもって、富を増大しなければならない」という内容です。1932年5月5日に創業記念式を開き、命知(めいち)1年と定めたそうです。「使命を知る」という意味を込めたことからも、理念を立ち上げたことの重要性が見て取れるように思いました。
理念を確立したことで変化
幸之助はなぜ理念を重視したのでしょうか。館内の展示や著作を読むと、その理由は以下の3つにあるようです。
①決断を下す根拠とするため
②社員が仕事に使命感をもてるようにするため
③困難に直面した時の支えとするため
決断を下す根拠については「(経営理念を確立することで)得意先に対しても、言うべきことを言い、なすべきことをなすと言う力強い経営ができるようになった」と語ります。理念はよく「判断軸」とも呼ばれます。大きな決断ほど、判断の基準が必要でしょう。判断軸がなければ、迷ってばかりで決断しにくいものです。
幸之助は事業拡大のために、理念を立ち上げた翌年の1933年に本社と工場を大阪府の現・門真市に移転しました。門真市は当時開発が遅れていた場所で、企業の立地はほとんどなかったそうです。そうした場所に、工場を移転するのは大きな決断だったと思います。それを断行したのが理念を立ち上げた直後だったということは、理念によって決断力が高まるということを象徴しているのではないかと思いました。
社員が使命感を持って仕事に取り組むようなったことも変化としてあげています。これは、理念を定めてから社員が自発的に朝会と夕会を開くようになったことが具体例です。理念実現のために何をすべきか決意を述べあい、夕方に今日一日で何ができたか振り返る場が自然発生的に生まれたそうです。
幸之助の過去の映像を見ていると、決して流暢に話しているという感じではないのですが、飾り気なく率直に思いを込めて話している姿が印象的です。社員を動かすためにはトップのメッセージが一人ひとりに届くかどうかが肝心です。自然発生的に理念を語り合う場が生まれたということは、幸之助の言葉が社員の心を捉えたことを物語っているのだと思います。
困難に直面した時の支えになったともいいます。その後戦争が始まり、敗戦となり、戦後の混乱にも直面しましたが「困難の中で支えとなったのは、その生産人としての使命感であり、何のためにこの経営を行なっていくのかと言う会社の経営理念だった」と語ります。
理念の大切さは個人も企業も同じ
会社にとっての経営理念とは、個人にとっては価値観でしょう。「自分の価値観がある」というのは言い換えれば「自分をよく知っている」と言うことだと思います。自分をよく知っているという認識は「コンセプトクラリティ」という指標があり、この指標が高い人ほど、人生の満足度や幸福感が高いという科学的なデータもあります。
会社でも同じではないでしょうか。自分の会社がどんな存在でありたいのか、きちんと言葉にできる経営者は逆境でもどこかに余裕がありります。記者時代にも、自分自身の言葉で「なぜその仕事をしているのか」語れる経営者に、人が集まる姿を見てきました。
幸之助は経営理念を打ち立てた後の変化について、短く次のように語ります。
「(経営理念によって)経営に魂が入ったといっていい状態になったわけである。そして、それからは、我ながら驚くほど事業は急速に発展したのである」
理念を浸透させる3ポイント
理念の浸透は経営者にとって大きな課題です。松下幸之助はどのようにしたのでしょうか。浸透策についても3つ強調しています
①社員が理念に触れる場を増やす
②幹部を伝道師にする
③若手を教育する
社員が理念に触れる場を増やすというのは、もっとも基本的なことになるのだと思います。松下幸之助が51歳の時にPHP研究所を立ち上げたのも、書籍によってメッセージをより多く届けたいという願いがあったからです。幸之助の場合は、理念を届ける方法として書くことと話すことは特に意識していたようです。
印象的なエピソードがあります。毎月の給料日に月給袋の中に幸之助のメッセージを入れていたそうです。ハガキ大の紙に日ごろの勤務への感謝の気持ちや仕事に対する考え方を書いて、封筒に同封していたといいます。銀行振り込みが当たり前の現代では、そのまま真似をすることはできませんが、給料をもらえる嬉しい日に、社長が励ましのメッセージをもらえると、社員は気を新たに仕事に取り組めるのではないでしょうか。
幹部を理念の伝道師にするというのも、考えさせられる取り組みです。組織においてトップの右腕になる人物が大切だということはよく聞きます。幸之助の場合、高橋荒太郎という人物が重要な役割を果たしました。高橋は松下電器内でも「松下の大番頭」「ミスター経営理念」と呼ばれ、後に会長になる人です。高橋荒太郎を筆頭とした幹部たちは幸之助から指導を受けたエピソードを後進に伝えていったそうです。人づたえに話が伝わるのは理念の浸透にとても効果の高いことだと思います。
もうひとつが、若手の教育です。松下幸之助は門真市に本社を移転した翌年の1934年、店員養成所(企業内学校)を開設します。12歳から15歳までの男子を選抜して、3年間の学業と工場実習を積ませて、旧制中学卒業程度の教養と実学を身につけさせました。自らも教壇に立ち、教えをときました。店員養成所からは関係会社社長や事業部長を含む多くのリーダーを輩出しました。「よき人を擁する事業は繁栄し、そうでない事業は衰える」と言う精神がこの活動を支えたのだといいます。
幸之助が成功した「3要素」
個人的に、経営理念のほかにこの記念館で印象残ったのは、幸之助自身が「なぜ自分は成功できたのか」という考えです。幸之助は自分が成功した理由は3つあるといいます。
学歴がなかったこと/体が弱かったこと/家が貧しかったこと
なぜこの3つなのでしょうか。幸之助は次のように語ります。
「貧しいから必死になって働くことができた。学歴がないから、商売の中で出会うすべての人、すべての出来事から学ぼうという気持ちになった。体が弱かったから、無理しないで人を任せた。その結果、人を育てることができた」
生きていると自分の思いに反する出来事にも多く出くわします。しかしそれをどう捉えるかは、私たち次第です。人生への意味づけは、私たちが選べるのだということを、幸之助の言葉から実感します。
理念は「血肉に化した言葉」で
幸之助は経営理念について、自らの人生観を反映させることが大切だと考えていました。決してかっこいい言葉を作るのではなく、血肉に化した言葉こそ、人の心を打つと考えていました。
「何が正しいかという、一つの人生観、社会観、世界観に深く根ざしたものでなくてはならないだろう。そういうところから生まれてくるものであってこそ、真に正しい経営理念たり得るのである。だから経営者たる人は、そのようなみずからの人生観、社会観、世界観というものを常日ごろから涵養していくことが極めて大切だと言える」
その人の人生観なり、人間観、世界観といった奥深いところに根ざしたものであることが大切です。つまり、その人の人間そのものから生まれてきたといいますか、いわば血肉と化しているというほどのものでなくてはいけません。どんな立派な内容でも、単に言葉の上でのお題目にすぎない経営理念では、いきた経営力には結びつかないと思いますな。
会社は経営者の器以上には大きくならない、といいます。経営者は、やはりご自身の内側にある思いを見つめ、誰よりも鍛錬を続けていくことが求められる仕事なのだと思います。厳しい役目でもあり、かつ人生をかけられる仕事でもあるのではないでしょうか。
経営は総合芸術
幸之助は「経営は生きた総合芸術」という言葉も残しています。芸術家が一つの作品を制作するときに骨身を削るような思いで全身全霊で打ち込むように、経営者もそうした心持ちで仕事に励ことで、はじめて人々を感動させ、後世に残るような作品を生み出せると語ります。経営者は芸術家でもある、この考えは、経営者の心を躍動させるメッセージではないでしょうか。
たしかに、幸之助の文章を読んでいると、詩のような美しい響きを持った言葉に出会います。経営者とは人の心をふるわせる詩人であるのかもしれません。
幸之助の創業記念碑(大阪市福島区大開)も訪ねました。町工場の立ち並ぶ大阪らしい場所にある公園にあります。ここにも「道」がありました。「心を定め、希望を持って歩むならば、必ず道は開けてくる。深い喜びも、そこから生まれてくる」。素朴で信のある言葉が刻まれた岩は、時代を超え、いまを生きる私たちに叱咤激励を送り続けている存在に映りました。
<文献は「道をひらく」「実践経営哲学」「社長になる人に知っておいてほしいこと」(いずれもPHP総合研究所)を参考にしました>