京都芸術大学大学院の学際デザイン領域(芸術修士:MFA課程)に入学して、4月から2年目に入ります。大学院生活が後半に入ります。
大学院生活は残り1年、あっという間でしょう。入学した1年前には見えていなかった「終わり」が遠くに見えています。
私は修士2年目で、どうしてもやり遂げたい1つのことがあります。大学院ルポ5回目の今回は、私自身が長年もち続けてきたコンプレックスも含めて、個人的な思いをあえてさらけ出して書いてみたいと思います。
この大学院に興味のある方や、学び直しに関心のある社会人の方に届きましたら幸いです。
目次
二者択一のゼミ選び→地域研究のゼミに
3月の1ヶ月間、大学院は春休みでした。久しぶりに課題に追われることもありませんでした。
しかし、3月は大学院に入って以来、最も重要な選択を迫られた月でした。ゼミ選びです。
私が所属する学際デザイン領域(IDS:Interdisciplinary Design Studies)は修士2年目で2つのゼミに分かれます。一つは「社会への観察を起点として新しい価値を創造する」ゼミ、もう一つが「歴史ある対象を文化資産として利活用する方策を創造する」ゼミです。
どちらもデザイン思考のプロセスを活用しながら研究や創造活動をしていく点では同じです。力点を置くところが「世の中にまだない価値を創造すること」か「地域の文化に新たな価値を見出すこと」という違いだと思います。
ゼミ選びはこの大学院生活で最大の分岐点です。さらに言えば2年目の1年間だけでなく、修了後も含めた人生をも大きく左右するものだと思いました。
3月の間、仲間と対話しながら考え続けました。ゼミ選択の締め切り3月21日ギリギリまで考えた末、私は地域研究のゼミを選びました。この選択をしたのは、大きく3つの理由があります。
選んだ理由① 「一つでない日本」をもっと知りたい
ひとつは「一つでない日本を、もっと知りたい」と思ったからです。
私は東京での新聞記者生活を今からちょうど2年前に辞めた後、キャンピングカーを買って旅に出ました。
7ヶ月かけて北海道の知床岬から鹿児島の開門岳まで46都道府県を巡りました。昨年は沖縄・石垣島を訪ね、日本の47都道府県を回ったことになります。独立2年間は、旅ばかりしていました。
旅は私の「日本」への見方を大きく変えてくれました。旅が教えてくれたのは「日本は一つではない」ということです。日本という一つの国は、地域特有の文化や歴史があり、気候も、そこに暮らす人も様々であることを知りました。
例えば、北海道には雄大な大自然の営みの中から生まれたアイヌ文化があります。東北には山深い環境の中から育まれたマタギや山伏の文化があり、紀伊半島や九州の国東半島には独自の山岳信仰があります。四国には生と死をめぐる旅の風習があり、沖縄には琉球の文化があります。
画一的な教育の中で育った私たちは「日本」や「日本人」というと「みんな一緒」「均一こそ特徴」というようになんとなく思いがちですが、旅をすればするほど、私は「地域による違い」に目を見開かされました。
同時に、その土地ならではの魅力が伝わっていない地域も多いように思いました。魅力的な場所や資産があっても、それだけでは人には伝わりません。一旅人として、訪ねてみたいと思える場所に共通していたことは「コンセプト」が魅力的かどうかでした。
日本では少子高齢化や東京一極集中、地方の過疎化といった問題が、この十数年ずっと言われ続けています。地方をより良い場にどう変えていくかは、今の時代を生きる私たちにとって大きな課題です。このことに関心があるのは、私自身が北九州で育った地方出身者であることも関係していると思います。
地域が培ってきた文化に敬意を払いながら、その価値を捉え直し、世の中に提示し直していくことは、今の時代にこそ必要とされる力だと考えました。
日本を知ることは、日本人を知ることであり、それは自分自身を知ることにも直結すると思います。旅を通じて湧き上がった「日本をもっと知りたい」という思いを、地域研究によって成就させたいと考え、このゼミを選びました。
選んだ理由②「リデザインの旅」をパワーアップさせる
地域研究のゼミを選んだ2つ目の理由は、修士1年次のチーム作品である新リトリート「リデザインの旅」をパワーアップさせたいと考えたからです。
私はこの大学院に「アウトドアとコーチングを組み合わせた場を作りたい」という思いで入りました。修士1年の後半の演習を通じて形になった「リデザインの旅」は、私がやりたいことのど真ん中でした。
リデザインの旅は、奇跡的なことが重なり続け、まるで新しい命が生まれるようにして形になった作品です。大学院のメンバーとたまたま昨秋から参加していた環境省のプロジェクトと大学院の演習が、当初はまったく無関係に進んでいたのですが、だんだんとやっていることが重なり出し、12月上旬に完全に一致しました。
そこから「大学院の演習」という枠を飛び越え、1月に京都の里山・京北で一泊二日のモニターツアーを実施し、全国から6人の方に来ていただきました。国の代表プロジェクトにも選ばれ、東京・大手町でネット視聴含めて100人以上の前で発表する機会もいただきました。共感しあう仲間が集まった時、想像を遥かに超える流れが起きることを、私はこれ以上ないほどに身をもって体感することができました。
実践を通じて多くのフィードバックをいただきました。課題としてみえてきたのは「独自性」と「魅力的な切り口」でした。
「リデザインの旅」のカテゴリーにあたるリトリートは現在、大小さまざまな事業者の試みが始まっています。共通していることは「自然の中で自分と向き合う時間を過ごす」といったことでしょう。
私たちのプロトタイプは「森の中の内省と対話」をテーマに、京北の森で一人で過ごしたり、自転車で田舎の道を散策したりすることを取り入れました。参加者アンケートでも一定の好評を得ました。
ただ学内外の方からのフィードバックでは「既視感がある」「地域性が生かされているのか」といった指摘をいただきました。リトリートが「レッドオーシャン化」しつつある現在、目先を変えるだけでは違いを出すことが難しいと感じています
リデザインの旅は、各地の地域性を生かし、複数拠点で展開したいと考えています。今の時代に必要とされる唯一無二のリトリート事業にするためには、地域へのまなざしを学究的に深めることが不可欠だと考えました。大学院1年目で見えてきた課題をこのゼミ生活によって乗り越えたいと思います。
選んだ理由③ 地域で生きる人になる
3つの目の理由は、私自身が地域で生きていく人になりたいと思っているためです。3月の1ヶ月、私は再びキャンピングカーに乗って、長野の飯山、新潟の南魚沼、群馬の北軽井沢、京都の京北、岡山の西粟倉の5地域を計17日間旅しました。
どの地域にも、風土に根付いたそれぞれの文化があり、それを試行錯誤しながら実践し、発展させ、継承していく人の姿がありました。
その地域ならではの風習は一つとして同じものがなく、どれもがユニークです。その土地土地の文化を残し、現代に生かしていく営みはとても尊いものだと感じられました。
私が地域に関心を持った最初のきっかけは、日本経済新聞の記者時代に宇都宮で3年間、支局の記者をした経験です。
私は当時、20代半ばの駆け出しの記者でした。栃木県中を走り回り取材をする中で、私が印象に刻まれているのは、地域で使命を持って生きる人の姿でした。活動している分野は人それぞれですが「自分が暮らしている地域をより良い場にしたい」という思いは共通しているように見えました。
地方取材をしていると「この地域は、この人がいるからこうなるんだな」ということがよくわかります。都市部だと誰が何をしているのか見えにくいですが、地方にいると一人ひとりの存在が、くっきり見えます。地方取材の3年間は、社会は人が変えることを実感を持って教えてくれました。
私もいつかそんな人になれたらいいなと頭のどこかで思いながらも、どうすればなれるのかわからないまま、私は当時の取材先と同じくらいの年齢になりました。
私には地域で生きる特別な技術があるわけではありません。しかし、旅を通じて出会った人は、いらぬ心配よりもまず心に従ってその地域に飛び込んでいるようでした。私もまた、そのタイミングにきているように思います。ゼミ選びは、私にとって地域で生きる人になる決断でもありました。
残り1年「学生時代を終わらせる」
残り1年の大学院生活、私にはどうしてもやり遂げたい一つのことがあります。
それは「学生時代を終わらせる」ことです。このことは「学部時代、何一つやりきれなかった」という長年抱え続けてきたコンプレックスからきています。
地理に恋をした高校時代
私は小学校5年生の時に、千葉県から北九州に引っ越しました。そして山あいにある「富野(とみの)」という地域の小中学校に通いました。関東から引っ越してきた私にとって、山が身近にある環境はとても新鮮でした。森を身近に感じられる中学校のグラウンドで3年間は野球にひたすら没頭しました。
自然が身近にある環境で小中を過ごした私が、高校時代にのめりこんだのは地理でした。山や川のでき方、気候や植生の違い、海洋の流れなど、地理を知れば知るほど自分の世界が広がるように感じました。
本屋では風景写真コーナーばかりに立ち寄り、見たことのない風景を見ては胸を高鳴らせ「いつかこんなところに行ってみたい」と想像を膨らませました。毎週土曜日の「世界ふしぎ発見」は高校1年の終わりから一度も欠かさずみ続けました。どんな問題が出たかといった細かいことも全て特製ノートに書き綴っていました。
ミステリーハンターのお姉さんに恋をして、ファンレターも送りました。番組が好きすぎて、高校3年の文化祭では「世界ふしぎ“発覚”」というパロディー劇を、応援団の仲間と作ったりしました。
「地理を徹底的に学んで、世界を放浪する冒険者になりたい」というのが18歳の私がせいいっぱい描いた夢でした。大学受験を考えるにあたって「地理オタク」が集まる場だと聞いたのが、早稲田大学の教育学部の地理歴史専修でした。勉強の成績が特別いい方ではなかった私は、この学部の受験科目である「地理」「英語」「国語」の3教科を徹底的に勉強して、一点突破する作戦をとることにしました。
応援部を引退した高校3年生の夏休み以降は自主的に学校を休み、退学になるギリギリの休みの日数を使って予備校の自習室にこもり、ひたすら英語・地理・国語だけの3教科だけを勉強しました。センター試験もクラスで唯一受けませんでした。模試の判定も良かったため、合格を確信していました。
なに一つやりきれなかった大学5年間
結果、私は地理学部に落ちました。なぜか、たまたま受けていた商学部には合格しました。
ほかに行くところもなかったので、私はそこに進みました。商学部に進学した理由は「それ以外なかったから」だけでした。
商学部は私の興味から最も外れた学部でした。簿記、マーケティング、財務会計などが並ぶテキストのどのページを見ても、「地理オタクになる」ことだけを熱望していた私は、まったく興味を惹かれませんでした。
自分の軸を何にしていいのかわからず、好きだった部活も中途半端にやめました。転部も認められないことを知り、落ち込み、あまりに大学がつまらなく、自主的に1年間休学しました。その時々で自分なりにせいいっぱいのことはやったとはいえ、大学5年間、迷ってばかりいました。友人もできませんでした。卒論も書きませんでした。
就職活動でも春採用はことごとく落ち、秋採用で運よく新聞社には入れたものの、同期が学生時代に「テニスに没頭した」「研究を夢中でやった」という話を聞くたびに「私には何も語れることはない」とひとり落ち込んでいました。
何もやりきれなかった学部時代の情けなさと悔しさはその後、心の揺らぎとしてことあるたびに精神不安の症状をもたらしました。34歳の時に9ヶ月うつ状態に陥った時、毎日繰り返し繰り返し、大学時代を後悔しました。
私が新聞記者をやめて「自己理念」をテーマとするコーチの道を選んだのは、私自身が長く迷ってきた分、迷うことの辛さと苦しさを知っているからです。迷う人に、言葉を通じて力になりたいと思ったからです。屈折した過去がなければ、独立を選ぶことはせず、大学院に行きたいとも思わなかったでしょう。
いまようやく私はそのコンプレックスから、ほとんど解放されています。最後の一押しとして、この残り1年をやり切ることが私自身にとっての大きなチャレンジです。18歳の時から続いていた「終わらない学生時代」を全力でやり切りたいと思います。
修士2年目で私が挑む3つのこと
残り1年で私は次の3つのことに、全身全霊をかけてのぞみたいと思います。
① 現地に飛び込み徹底探究する
修士2年目はゼミ活動に集中する1年になります。地域研究のゼミ生として、私は対象とする地域に飛び込んで、徹底探求したいと考えています。
大学院の志望理由書に私は「森を対話と芸術の場に変え、社会に新たな価値を生み出したい」と書きました。その思いを成就させたいと考えています。
大学院1年目の演習を通じて、研究にあたっては先行文献にきちんとあたることが大事だと知りました。それを前提にして、私は現地で見聞きし、実際に自分が感じることも同じくらい大事にしていきたいと考えています。
一期上の先輩にも現地に飛び込んで、独自のつながりを作りながら深く探究して研究成果につなげた方々がいます。地域研究は「歩く、見る、聞く」が大事なことだといいます。
私もキャンピングカーを走らせて、対象とする地域に思い切り飛び込んでいきたいと思います。飛び込むからこそ出会える人がいて、そして見えてくるテーマがきっとあるでしょう。頭でっかちになることなく、五感をフル活用して地域へのまなざしを深めていきたいと思います。
② 仲間とともに生み出す
2つ目は、仲間とともに作ることです。
私自身「誰かと一緒に何かをやる」ことは、これまで最も苦手にしていたことでした。なんでも一人でやろうとするタイプだったからです。しかし、それでは行き詰まることを30代半ばになって知りました。
この京都芸術大学大学院の学際デザイン領域に惹かれたのは「共創」を強調していたことも大きな理由です。共創は、私にとって未知の分野であり、それでいてずっと憧れていたものでもありました。
修士1年目の研究を通じて、共創がまさに新たなものを生み出すことを知りました。「リデザインの旅」は私一人では到底生み出せるものではなく、チーム6人の共創のなかで生まれた作品です。異なる誰かと出会い、対話し、それぞれの違いを認めながら力を合わせるからこそ、新たな価値を生み出していけることを知りました。
この地域研究のゼミでは、チームでひとつの風土記を作ります。メンバーそれぞれの観点からテーマを掘り下げ、最終的に一つの成果物として形にします。
私はどんなチームになってもメンバーを愛し、チームの可能性を最大限引き出すことにチャレンジしたいと思います。チームだからこそできる最大のチャレンジをしたい。前例にとらわれることなく、今の時代だからこそできることにめいっぱい向かっていく。そんな1年にしていきたいと思います。
③ この大学院を世の中に知らせる
もうひとつやりたいことがあります。この京都芸術大学大学院を世の中にもっと知らせることです。この大学院は2020年にスタートしたオンライン大学院で、今年で4年目です。まだまだできたての新しい大学院です。
オンライン教育は日本でも広まりつつありますが、まだまだ馴染みのない人の方が多数だと思います。1年間過ごした実感として、旧来的な学びの場の先をいく大学院だと感じています。オンラインだからこそ国内外から多様なメンバーが集まり、他のどこにもない学びの場が生まれています。
約3倍の倍率を通過して入った仲間たちは、多士済々です。経営者、起業家、会社員といったビジネス関係の人から、中央官庁や地方自治体、高校教師といった公務員、医師や弁護士、デザイナー、国際線のパイロットといった専門職の人、大学教授や研究者といったアカデミックの世界にいる人、ダンサー、モデル、元芸人などの芸術関係の方もいます。はたまた日本人で初めての月面着陸をめざす宇宙飛行士もいます。
選考では単に「頭がいい」「学業優秀」といった旧来的な「お勉強ができる」基準で選ばれているわけではないようです。「自分の可能性を信じて、仲間とともに世の中をよりよく変えていく意欲」を問われているように思います。
学びの仲間には、公務員を辞めて独立したり、大企業を辞めて異業種に転身したりしている人がたくさんいます。「多様な生き方」にあふれているのが、この大学院の最大の特徴だといえるかもしれません。
しかし、この大学院は世の中にまだほとんど知られていません。私自身、この大学院に救ってもらった恩義を感じています。新聞記者として身につけた「人に伝える力」が多少なりともあるとしたら、この大学院を世の中に知らせていくことにその力を使ってみたいと思います。過去の私と同じように仕事や人生に行き詰まり悩んでいる人に「こんな世界もあるんだ」と知ってもらうことで、勇気や希望を届けられたらと考えています。
大いに遊び、大胆にチャレンジする1年に
この1年をやり切ることで、自分の生き方は自ずから決まると思っています。私は現在37歳。独立3年目でもあり、自分の生き方を定めていく時期だと考えています。
この大学院に入って以来、胸に刻んでいるメッセージがあります。京都芸術大学の創設者・徳山詳直さんの言葉です。
徳山さんは2014年に84歳で亡くなるまで「社会の不条理と闘い、芸術や美によって世の中をより良く変えていく」ことを信念に活動を続けた教育者です。
戦後の動乱期で7回逮捕されても信念を曲げず「現代の松下村塾」をモチーフに京都芸術大学を作りました。2012年の入学スピーチで、新入生に対し「なぜ芸術を学ぶのか」について毅然と語る生前81歳の徳山さんの姿に心動かされました。
この大学院の入学願書を取り寄せたとき、ある小冊子が入っていました。「まだ見ぬわかものたちに」というタイトルで、徳山さんがこの大学を創設した思いについて書き綴ったものです。この中にある一つの言葉が、煌々と輝く朝陽のように生き生きとした力を与え続けてくれています。
大いに遊べ、そして大胆に試みよ
この1年間、決して縮こまることなく、失敗を恐れることなく、めいっぱい毎日を生きていきたい。前例にとらわれることなく、おかしな常識にも屈せず、仲間ともに大胆にチャレンジしていきたい。私たちの挑戦によって、世の中に新しい光を届けたい。
私たちの学位授与式は2024年3月16日。残りは351日。仲間とともに挑む苦しく、楽しい1年が始まります!
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