【京都芸術大学大学院の記録④】37歳社会人が大学院で1年学び直してどうなった?

京都芸術大学大学院に入り、まもなく1年になります。京都での大学院生活も、あっという間に折り返し地点です。

私は現在37歳。東京での慌ただしい新聞記者生活12年を終えて、2年前にコーチとして独立し2022年4月からこの通信制大学院(芸術修士:MFA課程)で学びながら仕事をしています。

働く社会人の中には、仕事や人生の選択肢を広げるために大学や通信教育などの学び直しの場に興味がある方も多いのではないでしょうか。「リカレント教育」や「リスキリング」といった言葉もよく聞くようになりました。

ただ「大学や大学院ってなんだかハードルが高そう」「興味はあるけど、特に研究したいこともないんだよな」と思っている方も少なくないかもしれません。

この記事では、まさか大学院生活を送るとは思ってもみなかった社会人37歳が、実際に1年間「大人の学び直し」をして、何が変わったのかお伝えしたいと思います。社会人大学生の一例として、ご参考になればと思います。

目次

会社辞めキャンピングカーで旅して出会った大学院

私は35歳の時、12年務めた日本経済新聞の記者を辞めました。東京での会社員生活を手放して、代わりに買ったのがキャンピングカーです。北海道の知床半島から、鹿児島の大隅半島まで、7ヶ月かけて日本各地を旅しました。

軽トラキャンピングカーで全国を駆け巡った(石川・千里浜で)

そのキャンピングカーの旅が、まさかこの大学院につながるとは夢にも思いませんでした。

旅の最中、古巣の新聞社から「旅と仕事の両立」についてラジオのコーナーで話してほしいという連絡をいただきました。放送日は2021年11月1日。その番組を聞いてくれていたある方が「話をもっと聞きたい」とインタビューを申し込んでくれました。その方が、この京都芸術大学大学院で「ライフシフト」を研究している人だったのです。

インタビューを終えて雑談していると、その方の口から出てくる単語に興味をひかれました。「芸大」「ライフシフト研究」「オンライン大学院」「MFA」、それらの言葉を聞いているうちに「なんだかおもしろそう!」という感情が湧き上がってきました。

大学院はそれまで、興味はあっても自分には縁がないものだと思っていました。なぜなら、私は学部時代、学校にほぼいかず、山や海外を歩き回っていただけの落ちぶれた大学生。成績も芳しくなく、卒業論文すら書いていません。しかし、話を聞いているうちに「ダメでもともとで受けてみよう」と決意しました。

忘れもしない2022年3月9日の合格発表。九州の実家でノートパソコンを開き、合否サイトで自分の受験番号が目に飛び込んできた瞬間、手元に握りしめていたノートを放り投げ、値千金の逆転ゴールを決めたサッカー選手のごとく、渾身のガッツポーズで雄叫びをあげました。

思いもしなかった、大学院生活が幕を開けました。

新しい仲間と出会い、人生が動き出した(2022年4月)

仲間と生み出した「リデザインの旅」

私たちの大学院の専攻は「芸術環境」です。芸術環境は多く人にとって聞き慣れない言葉だと思います。辞書にきちんと定義づけられている言葉ではなく、一般的な言葉でもありません。

芸術環境とは専門的なテキストによれば「一人ひとりが生きる意味を見出し、他者とともに喜びを分かち合える場」といった意味合いです。私たち学際デザイン領域の研究生はこの大きなテーマについて、それぞれの関心をもとに探求しています。

芸術環境を生み出す手法として「デザイン思考」のプロセスを実践的に学びながら修得しています。デザイン思考は、観察から始まり、問いを見つけ、具体的な形にしていくための施工のプロセスのことを言います。デザイン思考は「アート思考」とともに、流行りのビジネススキルのように紹介されることも一部であるようですが、そうした一過性のものでは決してなく、対象の本質を捉えながら独自の切り口を見出して新たな価値を提案する、手順を追った普遍的なものの考え方だと思います。

私がこの大学院に入ったのは「アウトドアとコーチングを組み合わせた新しい場を作りたい」という思いからでした。なぜなら、悩むことの多かった東京での新聞記者時代、私を救ってくれたのは山歩きなどアウトドア活動だったからです。そして、人生のどん底だった34歳の時にコーチングに出会ったことが私を助けてくれたからです。この2つを組み合わせ、過去の私のように世間体に縛られて悩む人が心を解放し、新たな道を見出せる場を作りたいと考え、この大学院を志願しました。

仲間と構想を語り合った

1年の研究成果が「リデザインの旅」です。「あるべき姿」に縛られた社会人が「ありたい姿」を描き直せる新しいタイプのリトリートを、大学院の仲間と形にしました。

「リトリート」との出会い

この1年、各地のキャンプ場やアウトドア施設を訪ね回りました。大学院やコーチの仲間とともに、今の時代に求められている「内省と対話の場」がどのようなものなのか、森や海で語り合いました。

そうしているうちに「リトリート」という言葉を耳にするようになりました。リトリートとは、もともとは「第一線から退却する」という軍事用語で、それが現代では「慌ただしく日常を送る人が、非日常の中で自分自身を見つめ直す営み」を指すようになりました。

自分の作りたいイメージと近いと考え、実際に体験しようと思い立ちました。11月に沖縄・石垣島で3日間「森のリトリート」に参加しました。亜熱帯の森に入り、海にたたずみ、ただゆっくりと静かに自然を感じました。観光スポットをめぐる慌ただしいツアー旅行でもなく、スキルアップのために知識を詰め込む研修でもありません。大自然の中で時を忘れ、ただゆっくりと、自分自身を感じる体験でした。自分自身とつながり直すような感覚でした。

「こんな質感のものを作りたい」。具体的に形にしたいものが見えてきました。

石垣島へリトリート体験をしにいった(11月)

大学院のワークと国のプロジェクトが重なる

この11月リトリートに参加して以降、まったく予想だにしない展開が起こりました。それは、大学院の仲間と参加していた環境省のプロジェクトと、大学院の演習のテーマが重なり始めたのです。

環境省のプロジェクトでは「新しい循環型社会づくり」をテーマに、京都・京北で新たな事業を考えていました。大学院では「人生100年時代の新たな社会デザイン」をテーマに、内省と対話に着目した場作りをチームで話し合っていました。

国のプロジェクトで一緒に参加していたメンバーと、大学院のチームでも偶然同じになったことも幸運でした。

秋からまったく別々に動いていたはずの、2つのテーマが12月、とうとうぴったりと重なりました。それはまるで、2つのせせらぎが合流し、一つの川になり、勢いよく流れ始めるようでした。

私たちは新たな内省と対話の時間を「リデザインの旅」と名づけ、12月半ばから実現に向けて一気に動き出します。年末年始を返上し、6人のチームメンバーが日夜奔走し、試作版をデザインしていきました。

リデザインの旅を始めた(2023年1月)

年明け1月7、8日、私たちは京都・京北で1回目の「リデザインの旅」を実施しました。関東からの参加者を含む6人と、森の中で2日間過ごしました。ときおり小雨が降り、冷え込む天候でしたが、参加した方々からは「森の中で非日常に没頭できた」「五感が研ぎ澄まされた」「新しい方向性が見えてきた」などといった声をいただくことができました。

まさかの東京発表の代表に

幸運なことに、この旅が国のプロジェクトの京都代表に選ばれ、2月18日に東京・大手町で発表する機会を得ました。全国から選ばれた7チームとともに、数十人が集まった会場と、100人規模のオンラインの視聴者の方に向けてプレゼンしました。

半年間での取り組みを、わずか7分で発表するのは簡単ではありませんでしたが、何十回とチームで話し合い、知恵を出し合って生み出したものを、世の中に提案したいという思いだけがありました。発表後、会場の方から「ぜひ参加してみたい」という声を多くいただきました。これまでやってきたことが間違っていなかったという確かな手応えを得ることができました。

現地のフィードバックでいただいたのは「既存のリトリートとの差異化」や「必要な人に届けていくための動線」などでした。コロナ禍を経て価値観が大きく変化する現在、「リデザインの旅」を改善し、必要な人に届けていくためはどうすればいいか、事業化に向けて課題も見えた東京発表になりました。

大学院の仲間と東京で発表した
(参考:1時間44分45秒くらいからが私たちの発表です)


大学院1年、どんな変化があったか?

「大学院にいくと、どんな力が身につくの?」。友人から時々聞かれる質問です。ひと口に大学院といっても学校によって特色は様々ですし、人によって学ぶ目的は異なります。

私たちの大学院はMFA(芸術修士)という日本ではまだ新しいタイプの課程のため、一般的なMBAなどのビジネス向けとは異なります。あくまで、私自身が感じている自分の変化として、以下3点書いてみたいと思います。

「知識を覚える」のではなく「問いを見つける」

ひとつめは、知識を覚えることよりも、問いを見つけることこそ重要だということを思い知ったことです。

私たち日本で教育を受けた大人の場合、「学ぶ」といえば、たいてい「知識を覚える」ことを連想しがちではないでしょうか。知識を覚えて、テストで良い点を取ることが「勉強をする」ことだと思いがちです。暗記偏重の受験勉強には、大きな弊害があると私自身感じています。

大学院の学びは、学部時代と大きく異なることを感じています。「知識の量」で評価される場ではないということです。特に今の時代、知識自体はAIに聞けば教えてくれるからです。

大切なことは知識の多寡ではなく、世の中に新しい切り口を提示する「問い」だと思うようになりました。その問いも、やみくもに質問すればいいというわけではなく、自分自身のテーマに紐付いた問いであることが大事だと感じています。

大学院に入り早々、ビジョンを明確にする演習に取り組んだ

自分にとって「のっぴきならないもの」とは?

「問い」について考えいると、国際的に活躍する映画監督・河瀬直美さんの話を思い浮かべます。

河瀬さんは大阪の専門学校で映像を学び始めたころ、何を映像のテーマにすればいいかよくわからなくなった時期があるそうです。その時、ある先生に「何を撮るといいのでしょう」と聞きました。その先生はこう答えたそうです。

「お前にとって、抜き差しならない、のっぴきならないものを撮ってみろ」

「のっぴきならない」とは、自分にとってどうしてもやらなければならないといった意味の言葉です。「どうしようもなく、探求せずにはいられない」といった切実な響きがあります。河瀬さんはこの問いから、それまで目を背けてきた「父親の不在」という自分にとって心の奥で引っかかり続けていたテーマに目を向け直すことにしたそうです。

「殯(もがり)の森」でのカンヌ国際映画祭グランプリの受賞など、現代屈指の映画監督になる第一歩は「のっぴいきならないもの」を見つけたことだったのです。

「自分にとってのっぴきならないものとは何か」。これを見つけることは、映画監督だけでなく働く私たち一人ひとりにとて大切なのではないでしょうか。なぜなら、仕事もまた自らの表現活動であるためです。

大学院1年を経て、私自身の「のっぴきならない問い」は次のあたりにあると感じています。

① 日本の「常識」は本当に人を幸せにし、社会をゆたかにしているのか。
② 東京の大企業で働くことが、本当に「人生の成功者」なのか。
③ 「対話」によって、なぜ人は変わりうるのか

この問いは、私が34歳の時に、9ヶ月どん底のうつ状態を経験したことが根底にあります。この経験は、それまでの自分がなんとなく信じていた世界観があまりに浅薄で、脆いものであることを教えてくれました。日本のマスコミや一般的な教育、主流とされる政治家がもてはやす「成功のレール」が、私には信じられなくなりました。それとともに、日本の「常識」や「当たり前」が本当に人を幸せにし、社会をゆたかにしているのかということに、根底から疑問を感じるようになりました。

シェアハウスの海外メンバーから教わる「日本」

この1年間、多国籍シェアハウスに住んできたことも大きな影響がありました。10人のシェアハウスで、日本人は私だけです。スペイン、イギリス、ドイツ、フィンランド、米国、トルコ、マレーシア、台湾、香港の友人と過ごしてきました。

多国籍シェアハウスの仲間から「日本」を教えてもらう

彼らと話していると、日本の当たり前が全く当たり前でないことに気付かされます。日常のちょっとしたことを、彼らはふしぎがります。

例えばコンビニなどお店に入った時「なぜ店員は『いらっしゃいませ』というのに、お客は何も答えないのか」といったことや「なぜバスや電車に乗るとみんなスマホばかり見て隣の人と話さないのか」といった疑問を彼らはもっています。

私たちが日常的に見ている風景も、異なる文化の人から見れば「ふしぎ」なことなのだと気付かされます。そこからも、私たち日本で生まれ育った人間が見ている日本社会の習慣というのは、ひとつの「ローカルルール」であり、決して普遍的ではないことを彼らから教えてもらいました。

この1年で、私自身「日本とは、一体どういう国なのか」という大きな問いが生まれました。日本を知り直すことは、日本人や日本語について知り直すことであり、それは同時に、私自身を知り直すことでもあると感じています。

「肩書きで守る」のではなく「裸の心でいる」

大学という学び合う場に身を置いてよかったことは、人とフラットにつながる感覚を取り戻せたことです。

ふだん私たち社会人は「どこの会社に所属しているか」「どんな職業をしているか」「どんな大学を出ているか」といった、肩書きで人を判断しがちではないでしょうか。「人」を見ているより、その人の「肩書き」を見ている場合が多いように感じます。私たちは人とどれだけ深く付き合えているのか、私自身の反省も込めてそう感じます。

私たち3期生の同期は56人です。会社員、公務員、起業家、医師、大学教授、高校の先生、デザイナー、ダンサー、歯科技師など多種多様です。日常的に、なかなかフラットに関わることができない人ばかりです。

しかし、この学び合いの場では、年齢も職業、経歴も関係ありません。「ともに学びあうこと」だけが私たちの唯一最大の共通点です。

同期の存在が大きな刺激になっている

「大人になると、友だちができづらい」とよく言われます。でも、本当にそうなのでしょうか。

私は大人だからこそ、人間性を理解した深い付き合いができるのではと思います。なぜなら、お互いが人生経験を積み重ね、自分や他者を理解する土壌を育んできたからです。二十歳前後までの「だれでも気軽に友達」といった関係性とは異なりますが「志ある人同士が肩を組む」といったことは、むしろ大人の方が深く豊かな関係を築いていけるのではないでしょうか。

大学院という場は「自分をよりよく変えたい」「こんな未来を作っていきたい」という思いを持った人が集まっています。そうした場だからこそ、新たな仲間を得るためにはこれ以上ない「大人の学び場」であると感じています。

大人の学び直しにとって大切なことは、「肩書きで身を守る」ことを手放し、裸になることだと知りました。「すっぱだかでい続ける勇気」をこの1年で学びました。

「そつなく」ではなく「失敗覚悟で踏み出す

学び合いの中で感じたもう一つのことは、「そつなくやる」ことに留まっていては、自分自身も世の中も決して変えていけないということです。

日常的な仕事では「そつなくやる」ことが評価になるのかもしれません。「おかげさまで大過なく勤められました」といった挨拶は、日本の送迎会や退職などでよく聞きます。仕事上「失敗をしない」ことは大事な面ではあるのでしょう。

しかし、私には「そつなくやる」とはどことなく「空気を読む」と同じような、同調圧力の強い日本社会を象徴する言葉のように聞こえます。どこか言い訳を含み、逃げ腰で、当たり障りのないことで煙に巻くジメジメしたものを感じます。

この大学院では「そつなくやる」ことこそ、最も評価されません。私たち大学院生が特に求められていることは、「新規性」「独自性」です。私は他の大学院に行ったことがないのでわかりませんが、芸術大学だからこそ特にこの2つが強調されているのかもしれません。

私はこの2つが評価軸とされていることを、とても新鮮に感じます。なぜなら、日本的な教育や仕事は「与えられたことをきちんとこなす」人が、評価とされる場合がほとんどだと思うからです。つまり「きちんと、そつなくできる」人が、これまでの日本社会で「優秀」とされてきたのではないでしょうか。

芸大の仲間は多彩

新聞記者時代に取材してきたのは、官僚や大企業幹部などまさに「最優秀」とされる人たちでした。しかし取材をしながら私は、そうした人ほど、どことなく生きずらそうで、いきいきとしたものが見当たらないことを、とてもふしぎに感じていました。そうした方を見るたびに、私の中で「痛み」を感じていました。

大学院での1年間を経て、私の中で凝り固まった「優秀さ」の定義が、崩れていきました。今の時代の「優秀さ」というのは「前例に沿ってそつなくやる力」ではなく「失敗覚悟で踏み出せる力」を言うのではないかと思います。

失敗覚悟で踏み出す時に、大切なことはその行為の意味だと思います。

著述家の山口周さんは、意味こそ「現代社会最大の資源」と説き、次のように語ります。

「他者からモチベーションを引き出すには『意味』が重要であり、『意味』の与え方によって人の働き方には雲泥の差が生じる。この『意味』を引き出すニュータイプの能力こそ、組織の競争力を左右することになる」

山口周「ニュータイプの時代」

私たちが挑戦している「新たな価値」を生み出す時には、そこにどのような「意味」を持たせるかが、人に共感してもらい、構想を実現していくために最も大切なことではないかと感じています。

大学院とは新たな挑戦に向けて「ゆたかな失敗」を思い切りできる場であることが、最大の価値なのではと思います。

「誰かが作ったレール」より「自らの手で道をひらく」

大学院とはどういう場なのでしょうか。1年過ごして感じることは「自らのテーマを生きる人に変わる場」ではないかということです。

学部までの教育は「社会の基準」に自分を適合させるための学びだったと思います。学部時代のゴールである「就職活動」にそれが象徴されるでしょう。

しかし、大学院はそうではなく「他者からの評価で生きること」を、一旦手放すためにあってもいいのではと思います。なぜなら、日本社会が行き詰まる中で、同じ評価軸で進んでいては状況は変わらないからです。

他者本位から自分本位の生き方に転換するのが「大人の学び直し」の最も本質にあるのではと感じます。言い換えれば「誰かが用意した既存の道」に乗るのではなく「自らの手で新しい道をひらく」場ではないかと思います。

同期でも実際に、長年勤めてきた大きな組織から異なる道を選ぶ人が出てきました。宇宙飛行士になった米田あゆさんも大学院の一期先輩の仲間です。

学ぶことは自分の小ささを知り、同時に、世界の大きさや豊かさに気づき直すことなのでしょう

大学院生活も残り半分、仲間とともに未知へのチャレンジを続けていきたいと思います。

仲間とともに後半も駆け抜けたい(2月19日、京都マラソンで)
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