コーチングの学びを深めたいと思い、CTI(Coaching Training Instituiton)のフルフィルメントコースを受講しました。8月21〜23日の3日間、オンラインで25人の方々と、人生の土台となる価値観や生きる目的、本質的な変化などをテーマに学びました。
この3日間を通じ私は、人にとって自分自身を深めていくことが大きな歓びになることを知りました。深い問いが人に大きな変化をもたらしうることも学びました。
飛び交うふしぎな言葉
フルフィルメント(fulfillment)は「充足感」といった意味です。このコースでは自分の人生を生きる基盤を掘り起こしていく演習がたくさん組まれていました。人は自分の価値観に沿って生きる時、もっとも充実感を感じるといいます。自分自身で見出した人生の目的に向かって生きている時、もっともその人らしさが発揮されると聞きます。私はこうした人生のそもそものところを考えることに興味があり、この3日間をとても楽しみにしていました。
しかし、コースの初日、私はとても戸惑いました。使われる言葉があまりにふしぎで捉えどころのないように感じたためです。
守秘義務があるため、言葉自体をご紹介することはできません。しかしながら、学習ガイドにはカタカナと日本語が組み合わさった言葉があふれていました。なんとなくカッコイイ感じの言葉ですが、正直ちんぷんかんぷんです。そのつかみどころのない言葉を、進行役の方々は何気ない会話で使っています。ふしぎな言葉が飛び交う異空間に立ち入ったような思いがしました。
CTIのホームページで公開されていてご紹介できる中では「響き」という言葉があります。進行役の方からは特にこの「響く感覚」が大切だということを繰り返し伝えられました。コーチとクライアントはお互いに響き合う関係が大切だということです。わかるようでわからない響きの実感。2日目の後半まで「いま響いていますか」という問いかけに対しても正直「よくわからない」というのが率直な感想でした。
しかし、2日目の終わり頃、この「響き」が、雷光にうたれるように体を走った時がありました。
「響き」ってどんな感覚?
2日目のホームワークで、次の日の朝までに「響くことをやってくる」がミッションとして与えられました。何をやってくるかを、25人の方々に順番に宣言していきます。
私は記者の経験を生かした「取材コーチング」という自分なりのコーチングをしようと、対話をもとにインタビュー紙面を作る試みを始めています。当日の夜、ある方にセッションをする予定がありました。そこで、翌朝までに対話を録音した音声レコーダーを、活字に起こそうと思いました。文字を早めに起こしてしまえば、紙面作りの作業が楽になるためです。
パソコンの画面上に映る25人の前で「あすの朝までにインタビューを全文文字に起こします」と宣言しました、直後、リーダー役の方から次の一言がありました。「あなたにはそれが響くのね」と。
まったく感情が湧き上がらないことに気づきました。文字起こしは記者の仕事を通じて、自分にとってもっとも面白くない事務作業だと感じているからです。自分はやるべきことを早めに終わらせられればいいなと思い、とりあえずそう宣言したのですが、その不意を突かれた一言にうろたえました。
実は同時に、心には別にやってみようと浮かんでいた考えがありました。コーチをつけるということです。自分はこれからコーチングの道を進んでいきたいと思っています。それには、やはり自分もコーチをつけて、どういう変化が起こるのか実感したいという思いを2ヶ月ほど前から持っていました。あるコーチに「近々」お願いしようと思っていたのですが、そのタイミングを「いま」にすることを考えた時、ある感情がはっきりと湧き上がりました。
それは「胸の高鳴り」でした。「コーチをつけること」と「文字起こし」。この2つの選択肢の決定的な違いは、「胸が高鳴るかどうか」にあると感じました。もしかしたら、「響き」とは「胸の高鳴り」ではないかと思いました。
響きとは英語でResonantというそうです。「鳴り響く」や「響き渡る」という意味があり、英英辞典では次のように書かれています。
A resonant sound is deep, loud and clear and continues for a long time
大きな鐘が鳴り響いているような情景が浮かびます。Resonantは詩的な膨らみのある言葉のようで、答えは一つではなさそうです。人それぞれで感覚はきっと違うでしょうし、またいろんな意味合い含んでいるんだろうと思います。私の中では、響きの感覚のひとつとして「胸の高鳴り」は実感をもって感じられました。
翌朝、あるコーチに「私のコーチになってください」というメッセージを送りました。送信ボタンを押す時、私の胸はたしかに響いていました。
自分自身を言葉と図で示す
またこの3日間では自分自身の内面を掘り下げる演習にも取り組みました。自分の中心部と、その外側にあるものをそれぞれ一言でいうと何か、ということについて探っていきました。
それぞれの印象を4、5人のグループになって率直に伝え合うセッションがありました。私の印象として「探究心が強い」「好奇心の塊」「人懐っこい感じ」「年下からもいじられそう」「笑顔がくしゃくしゃしてる」といったコメントをいただきました。
メンバーの目に映し出された鏡も使い、自分自身は私に「探求者」という言葉をあてがおうと思います。私はコーチングをする中で改めて気づいたのですが、相手の方の考えを深く知りたいという思いが自然と湧いてきます。社会問題や企業業績などニュースになる話よりもずっと、一人ひとりの思いに迫りたくなります。また、私は山歩きも大好きです。静かな山道を黙々と歩く時間は自然の奥深くに入っていく歓びを感じます。私自身を言い表す言葉として「人と自然の探求者」を思い描きました。
中心部の外側にある自分として、私は自分なりに3つの面を見つけることができました。それぞれ「自然体の柴犬」「ふるえる詩人」「怒りの獅子」と名付けようと思います。
ひとつ目は「自然体の柴犬」です。私は「自然体」を大切な価値観としています。自分を偽ったり、飾ったり、取り繕ったりしたくはありません。自分を偽り続ける苦しみを骨身にしみて知っているからです。「柴犬」というのは一週間前のCTIの基礎コースで他の受講生から頂いた私のイメージです。気ままに跳ね回る自由な感じと人懐っこい姿も想像できて、だんだんしっくりきています。この「自然体の柴犬」は、人と関わる時に意識してみたい自分だなと思っています。
「ふるえる詩人」も自分をあらわす一面です。私にはかなり繊細なところがあると自覚しています。繊細さの良い面は、その人ならではの言葉を感じられるところかなと思います。記者の仕事で自分が好きなのは、自分の言葉で語る人の話を聴くことです。職業や役職、社会的地位などは関係ありません。とつとつとしながらも、思いのこもった話を聞くと、私の心は静かにふるえます。どんなにエラい人でも、とってつけたような話しか聞けない取材は、本当にうんざりし、時間を奪われたように感じてくさくさします。語る言葉がその人自身のものかどうか嗅ぎ取れることは、記者の仕事を通じて自然に養われた力かもしれません。
一方で、その繊細さが裏目にでると、わけもなく落ち込みます。最近は穏やかになっていますが、一時期は感情の起伏が激しく、自分でもコントロールできないくらいでした。一日中、ベットで横たわり正体のわからない不安にふるえていたこともあります。これもまた確かに自分の一面であると受け止めたいと思います。
「怒りの獅子」も自分にとって、大切な一面です。私は一方的に他人の考えを押し付けられたり、なぜそうなのかよくわからない「常識」に従ったりすることが大嫌いです。権威をかさにきた人から、何かを強要されると腹の虫が大騒ぎします。私は人間関係はヨコでありたいと思っているので、上下のタテの関係でむやみに覆い被さってくる目上の人には反発します。たまりかねて、面と向かって喧嘩をけしかけたことも何度かあります。怒りの獅子は理不尽なことも起きる人生の荒野を自分らしく生き切る上で、大切な一面だと思っています。
考えを自分なりにまとめると、次のような図になりました。
自分自身をこう捉えたのは初めてです。この図を意識して2日間過ごしました。いまの私には、ぴったりくるように感じています。どんな時も私であるというような、なにか存在が濃くなったようで、なんだか安心感のような思いも感じています。ただ、私の面は3つ限りではないのかもしれません。感覚を研ぎ澄ませて、より自分への認識を深めていきたいと思います。
コーチは心呼び覚ますアーティスト
3日間を通じて、私は自分がイメージするコーチ像がずいぶん変わったように思います。自分なりの気づきとして、コーチはアーティストとも言えるのではないかということです。
私たちは、楽しいポップミュージックに心踊らせたり、美しいジャズの調べにうっとりしたりします。音楽は人の心を揺り動かし、生きる活力を与えてくれる存在だと思います。コーチは、ライブ会場で歌うミュージシャンのように大勢の人をいっぺんに感動させることはできません。しかし、目の前のひとりの心を揺り動かすことはできるのではないかと思います。そのやり方は芸術に正解がないように、十人十色です。各々の思いを込めたスタイルで人の心を揺り動かし、本来の力を呼び覚ますアーティストというイメージが私の中で膨らみ始めています。
コーチングに感じた怖さ
この3日間では、受講生以外の誰かに実際にコーチングをするミッションも与えられました。私は関わりのあるシンガーソングライターの方に受けていただきました。ただ、自分はそこでコーチングの怖さの一端に触れた気がしました。
怖さというのは、その人の誤った方向に導いてしまうこともあるのではないかということです。コーチングは人の持つ力を信じることが前提としてあります。人が自ら変わりうることを信じられない人は、コーチはできないと思います。
ただ、信じ抜くということが、相手をときに追い詰めることにもなりかねないという思いも持ちました。クライアントが本来願っていない思いを誤って本当だと信じこんでしまうと、その方を無用な苦しみに陥れかねないというような怖さを感じました。
まだコーチングの経験が浅いため、この怖い感覚を十分に伝えきる言葉がありません。
自分が長くやっている山歩きで例えるとすると、分岐点での道迷いのイメージです。登山で事故につながるミスというのは、道迷いが圧倒的に多いと言われます。自分自身も道がわからなくなり、肝を冷やした経験が何度もあります。道が別れる分岐点は特に注意のしどころです。行き先が示されている道標があるところはいいですが、深い山になるとそうした表示はありません。分岐点で足を止め、コンパスや地図を使って進む方向にあたりをつけなければなりません。誤った道に入っても、それが誤っているかはしばらく歩かないとわかりません。体力と時間が奪われていきます。間違いに気づいた時には、本当に気持ちが萎えます。このまま進んでもいつか着くのではという間違いを認めたくない気持ちにもとらわれ、引き返すことも大きな決断となります。そうするうち、戻る道もわからなくなり遭難事故につながります。
コーチは「伴走者」とも言われます。その伴走者が、大切なクライアントを望まない方向にみちびいてしまうことは、決してあってはならないと思いました。道迷いを防ぐためには、基本に立ち返り、聴くことをやはり何よりも大切にしなければならないと思いました。クライアントが分岐点に差し掛かったとき、その方の言葉を道標にして、心から望む方向に連れ立っていくことが大切だと、自分なりにそう考えました。
3日間たくさんの学びがあり、難しい言葉に頭を抱えながらも楽しかった、というのが率直な感想です。25人の方と一緒に過ごした時間は、コロナでまがまがしい夏の中に輝く思い出の一ページとなりました。
このコースの最後のメッセージは「生きるなら、響く人生を送ろう」というものでした。私はこれから人生の岐路に立った時、胸の高鳴る方を選び、進んでいきたいと思います。将来のクライアントの方にも、まっすぐな思いを大切にした人生を送っていただけるように、学びの旅を続けていきたいと思います。
<8月28日追記>コーチングに関する言葉は「コーチング・バイブル」(東洋経済新報社)とCTIジャパンのHPで公開されているものに限って使いました。
コメント