私は早稲田大学で過ごした5年間の大学生活をコンプレックスに感じ続けてきた。卒業して12年になる今でも、ときどきその大学時代に対する言葉にならない苦い思いがくすぶり胸がつまる。
このくすぶり続けている真因は何なのか。真正面から向き合いたい。胸に抱え続ける消化不良の思いをぬぐい、過去を土台に変えて生きていきたい。
目次
答えづらい「大学で何をしたの」
これを考えようと思ったのは、ある方との雑談がきっかけだ。気づくと私はまた大学時代のある出来事を口にしていた。大学1年の終わり、ワンダーフォーゲル部をやめたことだ。私は次のように話した。
「自分は自然や山登りが好きだったのに、中途半端にその部活をやめてしまった。山好きの親しい友人もできず、レベルの高い登山活動もできなかった」
過去の苦い話をすると嫌な感情が残る。その日の夜は心にしこりを残して眠った。しかし、翌朝起きてみると、自分が口にしたことに対して何か違和感のようなものを感じた。本当にそう思っているのだろうかと。
自分は人にあまりベタベタするタイプではない。親しい友人はかなり限られているし、それでいいと思っている。山好きの友人ができなかったことがそんなに引きずることだろうか。また部は離れたとはいえ、20代を通じて山に登り続け、冬山や海外の100㌔以上のロングトレッキングにも挑戦してきた。確かにロープを駆使した岩登りや沢登りなどの活動はあまりできなかったが、それは嘆き悲しむほどのことだろうか。
そう考えていると、私のコンプレックスというのはワンゲルをやめたこと自体にあるわけではないのではという疑問が出てきた。それよりも、ワンゲルの経験も含めた5年間で何をしてきたのか、自分なりに言い表せないことが原因なのではと思い至った。
私がコンプレックスを感じるときは、学生時代にこれをやったと、ためらいなく言う人の話を聞くときだ。例えば大学時代にテニスに打ち込んできたとか、国際金融を専門的に学んだとか、植物の研究に没頭したなどといった話だ。それに対して、自分はいろいろやってきたつもりではあるけれど、一体なんと言えばいいのか分からずにいた。そうした人の話を聴くたびに自分の心はぐらついた。自分の大学生活を肯定できない思いは心のおりとして長年たまり、不安定な気持ちをことあるごとに湧き上がらせた。
大学5年間を、私なりの言葉で言い表すとすればそれは何か。これを見いだすことで長年のコンプレックスは少しはおさまるのではないか。そう思い、改めて5年間の主だったことを手持ちのノートに書き出した。人並み以上に迷い、惑い、悩んできた5年だった。それぞれの行動は場当たり的で、これまで一貫性がないように感じてきた。
ただ、大学を離れて11年が過ぎたいま、上空から地を見下ろすように過去の出来事を俯瞰してみると、5年間の行動にうっすらと共通点があるように感じた。
それは誰かが与えようとする枠に押し込められないように、もがいてきたことではないかと。頭に「枠越え」という言葉が浮かんだ。
大学1年でやめた部活
大学1年、私は体育会ワンダーフォーゲル部で活動した。九州の山のふもとの小中学校で自然を身近に感じながら育ったこともあり、自然の中で活動することに興味がひかれた。部には同期が9人ほどいた。大学に入って初めての友人だった。お互いに距離感を探りながら、合宿などを通じて人となりを知り友達関係を作っていった。
活動はとても楽しかった。とりわけ北海道を旅した3週間の夏合宿は忘れられない。8人のパーティーで自転車に山道具を積んで連日100㌔以上、北の大地を駆け回った。
最北端の稚内に向かう早朝の景色は特に脳裏に焼き付いている。
その日は4時台の暗いうちに出発し、サロベツ原野沿いの道を北へ北へと走っていた。東には無人の原野、西には日本海の海原が広がる。30分くらい走っていると東の空がうっすら明かりを帯び始めた。原野と空が接する境目からその明るさは輝度を上げ、太陽の丸い縁が大地から煌々と天地を照らしていく。刻々と姿を見せはじめた朝陽の動きがまるで生き物のように見えた。自転車のタイヤと地面がこすれ合う音しか聞こえない静閑な時の中、大自然が織りなす荘厳な景観にペダルをこぎながら涙した。
その3週間の数々の光景は、いまでも私の心深く鮮明に刻まれている。
夏合宿が終わり秋になり、ひとつの出来事が起こった。親しくしていた同期の友人が部をやめるというのだ。起業するのだという。とつとつと、熱情を持って彼は語った。自分で決めた道を生きようとするその姿は19歳といえども大人びて見えた。自分の心の深い部分が揺さぶられた。とりあえず部活に入り、大学生活を充実させようとしている自分が何か幼く感じたからだ。
その頃、部に対するちょっとした違和感も覚えていた。体育会所属の部だったため、決まり事が厳しい。年7回の合宿があり、その計画は監督・コーチ会というものにおはかりをして認められなければ実行できなかった。会議にかけては問題点を指摘され、また直しては潰されるといった上級生のあくせくする姿は、楽しそうなものに見えなかった。なぜやりたいことをやるのに、許可が必要なのか。1年生で事情に疎い自分には、それが分からなかった。
年中合宿をさせられているような疑問が湧き、大学生活が部活に縛られていくことを味気なく思うようになった。起業をめざして我が道をいく彼のように大学生活を自分で切り拓きたいという思いと、自然の中での活動の楽しさを続けるという選択の間で激しく揺れた。結局、私は大学1年の冬の終わりに部から離れた。すっきりやめたとは言えない。後ろ髪を引かれるような思いが残った。部からの不器用な「枠越え」だった。
社交的な国際交流に馴染めず
大学の枠から離れて活動してみよう。そう思い、2年からは大学関係なく学生が集まる団体、日韓学生会議で活動することにした。なぜ韓国だったのか。理由は単純で、第二外国語で韓国語を選択していたからだ。また九州出身ということもあり、韓国は地理的に近い国だという思いはあった。同世代の韓国の大学生と、国を超えて率直に対話することはおもしろいかもしれないと思った。この学生団体では2年生から3年生秋までの1年半活動した。
この活動はどうだったか。結論から言えば、私は馴染めなかった。リーダー役を担ったにもかかわらずだ。
1年半の活動の後半、日本で夏に開かれる大会を率いる立場になった。私はこの団体が代々、東京だけで大会を開くことに疑問を感じていた。そのため、韓国人学生に日本を五感で感じてほしい思い、京都と東京の2拠点で開催することを提案した。15日間の間、前半は京都で、後半は東京に移動し、韓国人学生20人ほどを連れて日韓にゆかりのある歴史スポットを訪ねたり、テーマごとに分科会で意見を交わしたりした。自分なりには、ほかのメンバーと協力して一生懸命やったつもりだ。
ただ1年がかりで準備した大会が終わったとき、私はこみ上げてくるだろうと思っていた達成感のようなものが、まるでないことにうろたえた。成田空港から韓国へと戻る彼ら彼女らを見送る時、最後の1人がゲートの向こうに行った後、私は手応えのなさとむなしい感情が胸を占めた。言いようのない思いから思わず手に力を込めると、持っていた寄せ書きの色紙が折れたほどだ。
これは今だから言える。自分は国際交流という社交的な活動に対し、最後まで心から楽しい思いを感じられなかった。自分なりに一生懸命やったつもりだったが、馴染めなかった。
しかし、当時の自分はこれに懲りなかった。むなしい思いを感じるのは、自分がやり尽くしていないからだと考えた。もっとスケールの大きな国際交流の場を求めた。
憧れの船の後にうつぶして泣く
そこで大学3年の秋、1つの決心をした。大学を1年休学することを。大学という枠を越えるだけでなく、大学生という社会的立場も越えて、自分がどこまで国際的な舞台で活動できるのか試してみたいと。狙いを定めたのは、東南アジアを2カ月間、ASEAN10カ国の若者たちと様々な活動をしながら船で回る「東南アジア青年の船」というプログラムに参加することだ。内閣府が主催している国際交流活動で、日本のメンバーは40人。都道府県と国の2つの選抜試験がある。
英語での活動だったため、実践的な英語力を高めようと、アルバイトに精を出したお金で休学の前半はフィリピンに留学した。船の試験にも日韓学生会議での「社交的な自分」をアピールしてなんとか合格できた。
憧れの船に晴れて10月乗船した。日本を含め11カ国の若者らによる総勢300人ほどの国際クルーズが出発した。シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナムをそれぞれ寄港しながら交流活動をした。
2カ月間の船旅を終え、東京港に着岸すると日本は冬になっていた。東南アジアのメンバー、最後の一人をタラップから見送った瞬間、やるせない気持ちが膨れ上がり、胸が詰まった。それは、日韓学生会議を終えた時に感じた以上の、寂寞とした哀しさだった。
これはあくまで個人の感想で、このプログラム自体に社会的意義はあると思うし、素晴らしい内容だと思う。ただ私自身は、終わった後に期待していた達成感は残念ながらまるでなく、打ちのめされたような徒労感がこみ上げてきた。誰もいなくなったキャビンにひとり戻り、うつ伏して泣いた。他のメンバーが別れを惜しんで流していた涙とは違う涙だった。こんなはずではなかったという思いだった。自分は努力次第できっと社交的になれ、いろんな人と仲良くなれると信じていた。そのために1年休学すらした。終わってみれば結局それは、まったく無理な話だった。私はあまりに自分自身のことを知らなすぎたのだ。
部という枠を越え、大学という枠を越え、さらには休学して大学生という立場すら越えて、挑み続けた私の5年間は、その時々で自分なりに頑張ったとはいえ、決して満たされる思いを持てたとは言い難いものだった。その真因は、自分があまりに自分自身を知らなかったということにある。自分を知らず、なれないものになろうとし続けた。望んでいた社交的な自分にはなれなかった。
入りたい枠に入れなかった失望と反発
どうして、私は枠を越えよう越えようとし続けてきたのか。なれない自分にすらなろうとしたのか。
それは、入りたいと熱望した枠に入れなかったからだ。平たくいえば、熱望していた進路を叶えられなかったためだ。
自分は高校時代、地理が大好きだった。理系だった自分は特に自然地理が大好きで、日本だけでなく世界の山や川、湖の場所や名前を覚えたりでき方を調べたりした。知識が増えれば増えるほど自分の世界も広がっていくような感じがして、心弾んだ。大好きだったテレビ番組は「世界ふしぎ発見」だ。ミステリーハンターのお姉さんが紹介する世界各地の光景に、世界の多様さを知りますます地理への興味を持った。地理以外の授業中も地理の参考書ばかり読んでいた。ほかの科目はともかく、地理だけは学年トップクラスだった。
大学でも当然、地理や地学を学びたかった。狙いを付けたのは東北大学の理学部地圏環境科学科だった。九州からは出たかったし、東北という異郷の地で、自然に囲まながらハイレベルな地球規模の研究をすることに心ひかれた。
しかし、私の人生にとって最重要ともいえる曲折があり、東京の私学の学科に志望を変えることになった。その志望は実らず、結果的にたまたま引っかかった商学部に進むことになった。理系でもなく地理でもなく、ビジネスを学ぶところだ。もっとも関心から外れていた。浪人は考えなかった。「文系なんてどこの学部行っても同じだ」という無責任な言葉を真に受けたこともある。結果的には自分の実力と判断力が足りなかった。誰も責められない。
私が大学以降、自分自身がよくわからず、偽っているような感情を胸に持ち続けてきたのは、この選択にあったのだと思う。自分の興味からまるで外れた分野に進学したことで、自分自身が大きく混乱した。もともと1つのことを黙々とやることが得意な自分だったが、商業的なビジネスの学部に進んだことで、まったく得意ではない社交的なパーソナリティーを身につけなければという思いを持つようになった。
30代半ばになった今、こうした胸の内をさらすことに、ためらいを感じながら書いている。でも、屈曲した思いを打ち明けてこそ、過去を未来に進むための踏み台に変えられると思っている。これから自分の人生を作り直していくためには、この大学時代は向き合い直すことが避けられないテーマだと思っている。
与えられた枠を出よう出ようとしてきたのは、熱望していた枠に入れなかったことへの失望と、それに対する反発の思いが根底にある。ついに社交性を身につけられず、本来好きだった地理も学べなかった大学生活への悔しい思いは、これからも完全に拭い去ることはできないだろう。
枠はみ出したくて記者に
しかしながら、枠を越えたいという思いを持ち続けてきたことで、良かったこともある。私が記者になりたいと思ったのは、やはりそれも枠からはみ出たいという思いがあったからだ。
就職活動のとき、スマートな商学部生が関心を示す商社や銀行、大手メーカーといった就職先には私はまったく関心がなかった。どこかの会社の「社員」になることが会社という枠にがんじがらめになり窮屈そうな感じがしていた。記者になれば会社を問わず「一記者」という立場で比較的自由に動き回れそうなところにひかれた。私は学ぶことが好きなので、取材を通じて様々なことを学べそうだと思ったこともある。
記者になって11年たった。当初のこの思いは、かなえられたと思う。取材を通じて、社会のいろいろな立場の方の話を聞くことができた。ノーベル賞科学者、大臣、官僚、経営者、起業家、知事、プロバーテンダー、プロスポーツ選手などと直接話ができた。1対1で向き合える取材はその人だけに集中すればいいため、緊張はしてもやりとり自体は好きだと思えた。もしかしたら記者の仕事は、社交性のない自分ができる数少ない職業だったのかもしれない。
再び「枠越え」の時期に
ただ年次が上がるにつれて、私は会社の枠にはっきりぶつかることが増えてきた。記者であっても一企業の社員であることは変わらない。私はいま再び枠を越える時期に来ているのではないかと感じている。それは自分のこれまでの人生で、最大級の「枠越え」になるかもしれない。
私のこれまで挑んできた枠越えは、結果的にうまくいかなかったことが多かったかもしれない。ただ、大学時代に何をしてきたかという問いに対し「与えられた枠を越えようとしてきた」というまだ漠然としながらも自分なりの言葉を見出すことはできた。これによって、大学5年間を単なる「コンプレックス」というおおざっぱな負の表現でくくるのではなく、多少なりとも前向きな意味を込められるものに変えていけるのではないかと思う。
最近読んだ本の中で、印象的な一節があったので最後に紹介したい。
経験というのは、空回りしていることば、無意味にしゃべられていることばに、ほんとうに意味を与えるものですが、そうした働きは「沈黙」という状態において行われるのです。したがって、「経験」というものは「沈黙」という言葉と置き換えることができる。(中略)それは、ある沈黙に、ある一つのことばが結びつくという、ほんとうの一つの人間の行為です。
ー森有正「生きることと考えること」
「枠越え」という言葉を見つけるまで、私には11年の長い沈黙があった。この時間は無駄ではなかったと、これからの人生で証明していきたい。
私には「世間体の人を自然体で生きる人に変える」というビジョンがある。このビジョンが、世間体という「枠を越える」というメッセージだということに気づいた。私の枠越えに苦闘した経験が、誰かの希望や勇気を生み出すものになれば、とてもうれしいことだと思う。コンプレックスに感じ続けてきた過去が、意味のあったものだと実感できるようになればいい。
最後に、この長い拙文を読んでくださった方に、深く感謝申し上げます。
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