【コーチング1年体験ルポ 】 新聞記者だった私がプロコーチをつけてどう変わったか

私は新聞記者だった1年前の夏、初めて「コーチ」と呼ばれる職業の方と出会いました。コーチは「コーチング」という対話を主な仕事とする人です。

私はコーチングという一対一のやりとりをたまたま初めてみた時に「ふしぎな対話だ」と感じました。新聞記者として人の話を聞く仕事を10年以上経験してきましたが、コーチの「聴く」が記者の「聞く」とは、ずいぶん違うもののように感じたのです。

コーチングという対話のふしぎさを実感しようと思い、プロのコーチをつけることにしました。コーチといえば、スポーツのコーチしか思い浮かばなかった普通の会社員の私が、1年間コーチをつけることで何が変わったのでしょうか。コーチとはどんな存在で、コーチングとはどんなものなのか、私自身の実体験をもとにお伝えできればと思います。

なぜ会社を辞めるのか、自分と向き合いたかった

1年前コーチをつけようと思った最大の理由は、会社を辞める人生の節目だったためです。12年勤めた新聞社を翌年3月に辞めることを決断し、独立に向かう時期でした。新卒から勤めてきた会社を辞めることは、簡単な決断ではありません。会社に在籍する残り半年で仕事をやり切ったと思い、悔いを残さず独立したいという思いがありました。

コーチはよく「伴走者」と訳されます。会社を辞める時期になり、自分の生き方が間違いなく大きく変わることは目に見えていました。人生の変わり目で伴走してくれる存在がいることは心強いのではないか。なぜ会社を辞めて独立するのか、いったい私は何をやりたいのかといったことを人生の節目でしっかりと考え、言葉にしたいと思ったのです。

コーチは昨年8月にオンライン講座でご一緒した方にお願いしました。「私のコーチになってください」と一本のメールを送った時、この先どんな展開になるのかまったくわからず、そのわからない未来に対して胸が高鳴りました。

「光だけでなく、影も見せて」

9月から本格的にコーチングのセッションが始まりました。オンラインで月2回お会いし、1回当たり1時間の対話の場です。

対話が始まってまもなく、コーチは私に何度か次のように伝えました。

光だけでなく、影も見せてくださいね。人は、光と影の両面で形作られるのですから

コーチングというと希望にあふれたカッコいいことを言う場なのかなと思っていました。しかしそうではないようです。コーチは「深い影があるからこそ、人は自らを望む方向に変えていける」と語りかけます。コーチングを初めて受ける私は、その言葉にほっとした気持ちになりました。このコーチに、私は心のうちをさらけ出してみようと思いました。

負の感情が渦巻く

私は思うようにいかなかった過去を、グダグダと振り返りがちな人間でした。「なぜあの時にこの選択をしてしまったのか」「なぜあの時に、こう言えなかったのだろう」などと、ぐるぐると頭の中で反芻することが癖のようになっていました。感情の起伏が大きく30代に入って精神的な悩みがどん底まで落ち、9ヶ月ほどうつ状態の時期を過ごしたこともあります。

影の部分を話すことは誰しもためらうことだと思います。しかしそれも含めて安心して話せる場があることは、当時の自分にとっては救いでした。コーチは「感情に良い悪いはないですよ。マイナスと思っている感情でも、味わい尽くすことで、エネルギーに変わりますから」と言います。

コーチングが始まった2ヶ月くらい、私はセッションの度に涙していました。兄弟関係、志望していた進路が叶わなかったこと、もがいてばかりだった大学時代など、過去への強いコンプレックスに触れる度に感情が高ぶりました。

目からウロコが一枚ずつ落ちていく

こんなことを繰り返し話していて、何が変わるのだろうか、ふとそう思う時もありました。しかしコーチは、私の話をまっすぐ聴いてくれているように感じ、もう少し話してみようという思いにさせてくれました。コーチの問いかけは「なぜそうしたのか」といった理由の追及や「よかったね/よくなかったね」といった評価ではなく、「その出来事に対して今どう感じているの」や「その経験が教えてくれていることがあるとすれば何か」といったものでした

経験を過去の目線を引きずったまま見るのではなく、「いま」という日々更新されて続けている視点から見直すことで、これまでとは異なる見方や感情が生まれました。1回1回のセッションで、コーチの問いかけによって、目からウロコが一枚は落ちていきました。ウロコが一枚ずつはがれていく度、あたらしい光が差し込んでくる感覚でした。

対話を重ねるうちに、少しずつではありますが具体的な行動の変化もあらわれてきました。

仲間とのアウトドアを10年ぶり再開

まず起こったことは、仲間と一緒にやるアウトドアを10年ぶり以上に再開したことです。北九州の山あいの小中学校で育った私は10代の頃から、趣味で山登りやキャンプを続けてきました。たいていは一人で出かけました。静かに考えごとに浸れる時間が好きだからです。

しかし同時にどこかで、自然の中にいつも一人でいることに寂しさも感じていました。誰かと一緒に同じ景色を見れたらいいなと思ってきました。ただ、自分は一人で何かをやって満足する人間なのだという自己イメージが私の場合は強く、その一歩が踏み出せませんでした。

9月の終わりごろのセッションで私はコーチにそうした話をしました。するとコーチは「誰かと何かをするなら、何をしたい?」と問いかけました。私の中で思い浮かんだのは、焚き火でした。

キャンプ場でテント泊をしていると、焚き火を囲みながら言葉を交わしている光景を見かけます。私自身は社交的な人間ではないのですが、心通う仲間たちと親しく同じ時間を過ごしている場はいいなと感じていました。そうした暖かな場を、私も作れたらいいなと思ったのです。

焚き火を囲み、同じ時間を過ごす

まず自分で焚き火をやってみようと思い立ちました。東北旅行中にバーベキュー台を借りてやってみたり、都心で焚き火ができるの数少ないキャンプ場の若洲公園キャンプ場に行ったりしました。そこでの写真をコーチングを通じて知り合った仲間に共有したところ、思いのほか反応が大きかったのです。「今度やるときに一緒にやろう」という声もいただきました。

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(変化は小さなことから始まった)

思い立って10月最後の週末、焚き火を囲む会を奥多摩で開きました。すると4人のコーチ仲間が集まってくれました。特別何かをするわけではありません。焼きそばを作ったり、焼きマシュマロをしたり、コーチングを互いにやってみたりと、その程度のことです。しかし、秋の木漏れ日を浴び、川のせせらぎを聞きながら、同じ場と時間を過ごしていることに、私の心は静かにふるえました。

大学1年生の時、私はアウトドアの部活に入っていました。しかし悩み迷った末にやめました。それ以来、引け目を感じて、誰かとアウトドアにいくことをやめました。誰かと心置きなく自然の中で一緒に過ごすことはそれ以来、初めてでした。

誰かと同じ景色を見て、同じ時間を過ごしていること。私にとっては信じ難い光景でした。夕暮れ、お互いの顔も半分見えなくなっている中、車座になって語り合いました。「いい時間を一緒に過ごせて嬉しかった」。仲間から口々に出てきた飾り気のない率直な感想は、私が長年心の奥深くで望んでいた言葉でした。

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(仲間と心置きなく自然の中で過ごしたのは大学以来だった)

記者会見で感じた疑問

仕事でも変化がありました。当時、私は中央官庁の記者クラブの担当記者でした。大臣会見などの記者会見の時には、たいてい司会役の方から記者側に「所属とお名前を言ってからお述べください」と当たり前のように冒頭で言われます。

10年以上記者をやっているうちに、私はそれに疑問を感じるようになっていました。なぜ所属があって名前があるのか、と言うことです。記者の質問はたいてい、記者自身が疑問に思ったり、もっと知りたいと思ったことをたずねます。確かに会社から「これを聞け」と言われたことを質問することもあります。ただ私自身は、自分がもっと知りたいことを聞きたいという率直な思いを、記者として大事にしたいという考えがありました。

アメリカに留学させてもらっていたとき、CNNや地元のニュースチャンネルを見ると、ジャーナリストは必ず名前と所属の順で話していることが印象的でした。個人の考えをきちんと相手に伝えているように見受けられたのです。それをみた時に、日本の記者は会社に埋没している存在のように思いました。会社から言わされているのではなく「一記者としてこう考えている、だからこれを聞きたい」と言う姿勢の方が、所属で名前を隠すよりも、ずっと潔く、プロ意識のある働き方だと思ったのです。

一新聞記者の小さな抵抗

このことをコーチに話すと「ぜひやってみてほしい」と背中を押されました。中央官庁の記者会見はとりわけ、規則が厳しく、何と言われるかはわかりませんでした。「所属→名前」ではなく「名前→所属」で言うことなど、変なこだわりだと言われればそれまでかもしれません。しかし、自分は、理由のよくわからない「常識」には従いたくないという思いがありました

11月の記者会見で、意を決してそれをしました。司会からマイクを渡された時、その手が震えていることに自分でも気づきました。震える手でマイクを握った時、思い浮かべたのは私を励ますコーチの顔でした。

名前→所属で質問したことを、他の人が気づいたかどうかはわかりません。会見を終えてもそれを咎められることはありませんでした。結局私は、退職するまでの最後の半年間、このスタンスを通しました。一新聞記者の小さな抵抗に過ぎませんでした。しかし、この小さな抵抗は、大きな組織に埋没するのではなく自分の考えで生きていきたいという願いの象徴だったといま思います。

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(担当していた環境省の小泉大臣にもたびたび質問させていただきました。独立時には私の決断を励ましてくださいました)

なぜ、行動に変化が起きたのか

なぜコーチングを受けて、こうした変化が生まれたのでしょうか。コーチングと聞くと「目標を決めて、それに向けてどう行動するか」という、上司が部下の目標達成に使うものといったイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。しかし、私とコーチとのやりとりはそうした「目標志向型」のものとは違いました。むしろ「自分自身がどうありたいか」という個人の在り方に焦点を当てたやりとりがほとんどだったように思います。

コーチングの分野では、よくDoingやBeingという考え方が出てきます。目に見える行動や目標といったものはDoingに当てはめられます。外面的で変化がわかりやすいものだとされます。私自身の「焚き火」や「記者会見での質問」が当てはまります。

それに対してBeingは「あり方」とも訳されます。外側に目立って出てくるものではなく、内面的なものです。自分自身をどう捉えているのかという自己認識とも言えるでしょう。どんな行動(Doing)もあり方(Being)が土台にあるのです。Doingを変えることも大事ですが、そればかりに焦点を当てても、土台となるBeingが変わらなければ、望ましい変化は長続きしないでしょう。

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私のコーチのまなざしは常に私の「あり方」に向けられているようでした。

人生を内側から導く原動力は?

私のあり方を変えたセッションの回が何度かありました。そのひとつは、人生を充実した方へ導いていく原動力は何か探る回でした。その原動力を「内なるリーダー」と呼ぶそうです。自分の内側にあるその存在を見つけ、言葉にするという試みでした。

私はこの「内なるリーダー」に、最初は「探究者」という名前をつけていました。私は昔から器用なタイプではなく、何かを同時並行でうまくこなすとことはできません。その代わり、これをやると決めたひとつのことに対しては集中して取り組むタイプです。何かの目標に向かってコツコツ取り組むという自己認識から「探究者」という言葉を当てはめていました。

しかし、なんとなくしっくりこないところも感じていました。もう少し自由な雰囲気を望む人間だと思っていました。高校時代は放浪に憧れ「世界ふしぎ発見」をみたりアウトドアのバイブル「冒険手帳」などを読んでは、いつか自然の中で生きてみたいと思っていました。高校3年生の時には学校をサボり、電車で山口の日本海側を旅した時もあります。

「ずっとワンダラーだったんだね」

そう考えるうち、私の頭の中に浮かんだ言葉は「ワンダラー」でした。「ワンダー」とは驚きやふしぎといった意味です。心引かれるものに従って生きていきたいという願いと重なりました。大学で初めに入った部活はワンダーフォーゲル部でした。しかし、私は途中で辞めたため、自分自身を「ワンダラー」と表現することに抵抗がありました。

このためらいも含め、私は自分が思っていることを素直にコーチに伝えました。するとコーチは静かに、しかしはっきりとこう言ってくれました。

「すけさんは、これまでもずっとワンダラーだったんだね」

その一言は、心の奥、深いところで響きました。

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(19歳の夏、確かに私はワンダラーでした)

そうだったのかと思いました。部活を辞めて、未知の世界だった国際交流の活動に励んだことも、知らない世界を知りたいと思い新聞記者を目指したことも、自分自身と向き合いたいと思って一人でも山旅を続けてきたことも、それらも含めて私は「ワンダラー」であったのかと。コーチからの一言は、自分の認識をダイナミックに変えました。気持ちの中で長年つっかえていたしこりが溶け、モノトーンだった心が色づき始め、早春の希望を感じさせる風が吹いてきたように感じました。

「独立して、本当は何がしたいの?」

続く2月下旬のセッションで、とても大きな問いがありました。

コーチと私は山に出かけました。里山を歩きながら対話をする「山歩きセッション」です。当日は天気が良く、春を思わせる陽射しが降り注いでいました。会社員生活もいよいよ終わりを迎えるこの時、コーチは私にこう尋ねました。

「すけさんは、独立して本当は何がしたいの」

不意をつかれた思いでした。当時は有給休暇に入り、独立後の仕事の準備を進めていました。改めて「独立して何がしたいのか」とまっすぐ聞かれると、いったい何なのだろうと答えに詰まりました。

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(森の陽射しを感じながら自分自身の心に聞いた)

10秒くらいの間がありました。私がつぶやいたのは次の一言です。

「自然を感じる暮らしがしたい」

これが私の心底の願いでした。大学で上京して以来、大都会のど真ん中で生きてきました。刺激に満ちた青年時代でした。しかし30代に入り、自然を感じられない大都会での生活を自分自身望んでいないことは、はっきりしていました。東京を離れようと思ったのも、自然を感じる暮らしがしたいと思ったからです。その原点をその問いは思い起こさせてくれました。

たまたま見つけたキャンピングカーを買う

この一言から、同時にひらめいたことがあります。キャンピングカーです。取材を通じて、バンライフという仕事と旅を両立させる生き方を実践している方の存在を知っていました。自分にもできるかもしれない。やってみたい。心がうずきました。

本心から願えば叶うものなのでしょうか。3月上旬、縁があって訪ねた大阪の中古車販売店で、たまたま条件にぴったりのキャンピングカーを見つけました。即決でした。

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そして、いま私は全国をめぐる旅をしています。7月からスタートし2ヶ月目の今、北海道を旅しています。この北海道は19歳夏、ワンダラーの仲間と自転車で3週間めぐった地です。私の中のワンダラーがここに連れてきてくれたのではないかとすら思います。

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(東京生活と新聞社勤めを卒業し、キャンピングカーで旅を始めました)

コーチをつけることはどういうことか

コーチとの1年間を振り返り、コーチは自分にとってどんな存在だったのか考えています。実感を込めて言えば「本心に従って生きる勇気を与え続けてくれた人」ではないかと思います。

そのコーチは「自分の命を生ききる」というテーマをもった方でした。過去に身近な方の命を無くすという経験があり、それがコーチという仕事を選んだ原点にあると聞かせてくれました。

コーチは一人一人が自分ならではのテーマを持っています。同じコーチでもクライアントによって、関わり方が違うのがコーチングだと思います。生身の一対一の人間が深く聴き合うことで、どんな変化が生まれるのか、それは当人であるコーチとクライアントすらわかりません。

コーチとの対話で私に変化が起きたのは、コーチの「命」と、私の「本心」というそれぞれが大切にしていることが響き合ったことによるものだと感じています。

焚き火でいえば、小さな火種を見つけ、たき木をくべてうちわで懸命に仰ぎ、再び燃え上がらせてくれたのがコーチだったように思います。コーチの投げかける一つ一つの問いは、私にとって、小さな火をじわじわ大きくしていく言葉の燃料でした。対話を始めたばかりの時は、くすぶって消えかかっていたわずかな火が、一年後の今は天に向かってあかあかと燃え上がる炎に変わったように感じています。

コーチからの最後のメッセージ

今月初め、コーチとの最後のセッションがありました。コーチから私に向けられた最後のメッセージは「もっともっと心にしたがって生きてほしい」でした。そして「怖がらずに愛されてほしい」という言葉もいただきました。

コーアクティブ・コーチである長谷川由香さんはご出身の鹿児島にどっしりそびえる桜島のように、すべての感情を包み込み、心に熱風を吹き込んでくれる豊かで雄大な存在でした。初めてのコーチがゆかさんだったことは、私にとって最大の幸運でした。コーチとは単なる職業ではなく、生き方であることを教えてくれました。出会えたことに深く感謝しています。本当にありがとうございました。

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コーチの道を歩む私も、これから出会うクライアントの方の心に命の熱風を届けられる存在になりたいと思います。

ご参考)
長谷川由香コーチのサイト

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