片道切符の沖縄内観〜39歳で引きこもりニートになった元記者コーチのぶざまな記録

  私は今からちょうど1ヶ月前、沖縄本島南部の太平洋をのぞむ地で「内観」と呼ばれる体験を7日間、経験してきました。

 私はそれまでほぼ2年間にわたり、引きこもり生活をしていました。仕事もせず、人間関係もなく、いわば完全な「中年ニート」でした。自分自身に失望し、過去を嘆き「自分の人生は完全に終わった」と、昼夜を問わず安酒をあおる日々を繰り返していました。

 気づけば40歳になり、もう生きていても仕方ないと思い、住んでいた福岡から片道切符で冬の沖縄へ向かいました。地の果て、海の果てで消えるためです。

 その沖縄の地で「内観」に出合いました。

 結果から言えば、私は内観を体験して1ヶ月後の今、冬の沖縄の海で消えることなく、こうして文章を書いています。胸には一筋の希望も抱いています。 

 この駄文では、人生に失望し切った一人の「引きこもり中年ニート」が内観を経て、もう一度生き直そうと思った経緯について、正直に書いていこうと思います

 世の中には、仕事や人生に悩みを抱えて、行き詰まり、希望を失いかけている方もいらっしゃると思います。私自身の体験をありのままお伝えさせていただくことによって、人生でどうしようもない悩みを抱えた時、「内観」という日本に伝わるひとつの手法があることを、頭のほんの片隅でも思い出していただけるのであれば、これに勝る喜びはありません。

目次

会社員から独立3年目、急転した人生

 私は2021年3月、35歳の時に、12年間勤めた新聞社をやめて独立しました。大学を卒業し、新聞記者として働かせていただいた12年間は、今振り返っても本当にありがたい時間でした。

 経営者、政治家、官僚、起業家、大学教授、研究者、地域で活動する方々、スポーツ選手など、さまざまな分野の第一線で活躍されている方々に、取材を通じて直接お話をお聞きする機会に恵まれました。

 もちろん辛いことも多々ありましたが、様々なことを教えてくれた上司の方々、共に励ましあった同期の仲間、慕ってくれた後輩など、とても恵まれた時間を過ごさせていただいたと思っています。あまりに無知で礼儀も知らない私に、社会人として生きる基礎を身につけさせてくださいました。心から感謝しています。

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環境省担当記者として小泉進次郎環境相(当時)にもたびたび取材をさせていただきました(2021年3月)

 独立を決めたのは、会社員11年目の時に、偶然「コーチング」という仕事に出合ったためです。

 会社勤めをしながらも、いつか個人で仕事をしていきたいという思いはありました。しかし、どうすれば独立できるのかわかりません。時間だけが過ぎていくことに悩んでいた時、偶然「コーチ」という職業があることを知りました。コーチングと呼ばれるやりとりを動画で見ているうち、自分の関心や記者としての経験を活かせるかもしれないと思ったのです。

 そこでコーチ養成機関でトレーニングを受け始めました。学んで実践すればするほど、自分にとってとても意味があり、人の力になれる仕事だと感じるようになりました。そうするうち、新聞記事とコーチングを組み合わせた独自のサービスで新しい価値を届けていけるのではというアイデアが芽生えました。

 独立への気持ちが固まり、最後に担当させていただいた環境省記者クラブの仕事を3年間やり切った2021年4月、独立しました。

日本一周、大学院合格、法人化、補助金事業の採択

 2021年4月に独立して最初にやったことは、仕事の立ち上げと同時に、小さなキャンピングカーによる日本一周の旅でした。コーチとは、一人ひとりが心から望む方向を見出し、一歩踏み出すことを応援する仕事だと思います。私自身もコーチングを受ける中で、やりたいことにめいっぱい挑戦しようと思い立ちました。

 退職金で中古の小型キャンピングカーを買い、同年7月に地元の九州を出発しました。そこから7ヶ月かけて日本最北端の北海道・知床から最南端の鹿児島・大隅半島まで回りました。各地で学生時代の友人たち、会社員時代にお世話になった方たちにもお会いさせていただきました。今振り返っても夢のような旅でした。

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北海道から鹿児島まで46都道府県を7ヶ月かけて旅した(石川県羽咋市の千里浜、2021年7月)

 旅のご縁で、新設されたある社会人大学院を知りました。学ぶ内容がコーチングと親和性があり、独立してやりたいことを実現していけそうな場だと感じた私は、出願書類を出し、3倍ほどの倍率を運良く突破して、大変ありがたいことに合格させていただきました。

 日本一周の旅を終えた翌年の2022年の4月、私は大学院のある京都に移り住み、仕事をしながら大学院で学び、研究する生活に入りました。

 やりたいことのど真ん中に挑戦できているという手応えがあり、仕事も大学院での研究も夢中で取り組んでいました。仕事では法人様からのご依頼もいただけるようになり、個人事業主から合同会社に法人化しました。大学院1年目の最後の研究で、やりたいことがひとつの形になり、市観光協会様からの補助金もいただくこともできました。

 仲間と共に知恵を出し合って形にしていく過程は、難しいこともたくさんありましたが、その分とてもやりがいもありました。進む背中に強烈な追い風を感じていた私は、大学院2年目でさらにやりたいことを具体的な形にしていこうと意気込んでいました。

 車の運転で例えるなら、ためらうことなく、アクセル120%全開で思い切り踏み込んだのです。

急転直下、大学院を除籍に

 ところがここから全く思いもしない展開となります。結論を言えば、私は大学院を除籍になりました。

 当時、新設3年目の社会人大学院ということもあり、先生方もとても意欲的で、同期55人ほどの仲間もさまざまな職業から集った多士済々の顔ぶれで、やりとりをするだけで刺激に満ちた場でした。院を終了した後には、研究員として残る道もあり、独立して当時3年目の私にとっては「やりたいことを仲間と実現する心強い居場所」と感じていました。

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大学院の同期には多士済々の仲間が集っていました(2023年3月)

 しかし私は除籍になりました。誤解のないようにお伝えしますが、私は違反行為や不正など悪質なことをして処分されたわけでは決してありません。私の手続き上の不備が原因です。

 しかしそれでも、先生方、そして共に研究していた方々には、多大な迷惑と心配をおかけしてしまいました。どんな理由にせよ、悪いのは私自身です。何ひとつ弁解の余地はありません。

現実を受けれられず

 自分が悪いとわかっていながら、正直に言えば、私は自分に起きたことを受け入れることが長くできませんでした。

 目標を実現する場として全力を傾けていた大学院を「除籍」になったこと、関係が壊れてしまった仲間たち、そして移住さえ具体的に考えていた京都を逃げるように離れてしまったこと。自分がしたことにもかかわらず「そんなわけがない」と現実を否定する思いをずっと抱え続けていました。受け入れられないでいました。時に他人のせいにするようなこともありました。ひとえに、私自身の未熟さゆえです。

 未熟で身勝手な私は、自分自身を受け入れられず、現実も受け入れられませんでした。ひとりで閉じこもっているうち、独立して描いていた夢ややりたいことを社会から「するな」という処分を下されたと思い込むようになりました。次第には、自分の過去すべてを自分自身で否定するようになりました。

 この急転直下の心境を例えていうなら、山道で突然足を滑らせ急崖から何百メートルも滑落した登山者のようでした。心身が擦り切れて、再び立ち上がる気力もなく、その場にうずくまるだけの日常が始まりました。

酒におぼれ、現実否定の日々が始まる

 私はそれまで、どちらかといえば規則正しいタイプで、会社勤めの時から朝方の生活をしていました。しかし、その出来事以来、引きこもりとなり別人へと変わっていきました。

 朝から酒を飲み、現実を忘れるだけの時間を過ごすようになりました。激しい気持ちに襲われて、自分がしたことへの後悔の気持ちが抑えられなくなる時もありました。70歳にもなる親に無理やり車に乗せられて、精神病院にも2度入院しました。自分に起きていること、すべてを受け入れられないまま時間だけが虚しく過ぎていきました。

 2年ほどの引きこもりの間、立ち直ろうと具体的に動いていた時期は2ヶ月ほどありました。半年以上引きこもっていた2024年の10月半ばのことです。風が冷たくなり季節が秋に変わっていることに気づきました。季節は移ろっているのに、私は何も変わっていないことに気づき、このままではいけないと初めてはっきりとした危機感を覚えました。

 もう一度立て直そうと思い、翌月から仕事を再開しました。いくつかのご依頼をいただくこともできました。しかし、SNSなどで当時の大学院の研究メンバーやコーチの仲間たちが活動する様子を見るたびに、心落ち着かず、私は何をやっていたんだろうと再び後悔のスパイラルに入っていったのです。

終わりのない2度目の引きこもり

 だんだんと、自分がどんなにがんばったとしても、仕事も人間関係も元には戻らないことことに気づき、立ち直ろうとした心も再び萎んでいきました。そして2025年に入って早々、北九州の小倉のマンションで2度目の引きこもり生活になりました。それが、まさか1回目よりもひどく、長くなるとは思いもしませんでした。

 朝から安酒を飲み、酩酊したまま現実を忘れるためだけのスマホゲームなどに費やすだけの時間を永遠と送りました。こうした公になる場では書けないこともしました。自分がしている生活が明らかによくないことはわかっていました。酔いが薄らいだ時、もう一度やり直すことはできないのだろうかと思うことは何度もありました。

体重10キロ超増え「引きこもり中年ニート」に

 しかし、急転直下する前後のことを思い出すだけでも、気が狂いそうになりました。そんな場面が頭をよぎると、冷蔵庫へ直行して買いだめしていた缶酎ハイや酔うためだけのウイスキーを浴びるように飲み続けました。朝か夜なのかもわからず、眠り続けて、起きては時間を忘れるためだけのスマホゲームばかりしていました。

 「何もかも失った」と失望しきって、酩酊して眠る怠惰の極みの生活を、何ヶ月も何ヶ月も繰り返しました。私は痩せ型で体重はもともと58キロ前後でしたが、気づけば70キロを超えていました。身も心も完全に別人に成り果てました。

 大学院を除籍になり、引きこもり生活を長く続けている私に仕事などくれる人はいない。私は間違いなくもう一生働くことはできないと確信しました。私はどこからどうみても完全に「引きこもり中年ニート」になりました。

 東京の霞ヶ関担当の記者をしていた時には、日本の最新の動きを取材しているんだと意気込み、キャンピングカーで夢のような日本一周をして思い上がっていた私が成り果てたのは、何ヶ月にもわたりスマホゲームだけしている「中年引きこもりニート」でした。その落差を自分自身認められず、また安酒やウイスキーを浴びるように飲んで眠り惚け続けました。

「人生を終わらせに」片道切符で冬の沖縄へ

 引きこもり生活も長くなり、立ち直る気力が湧くことはもうなくなりました。立ち直った自分を想像すらできなくなりました。どうすれば人生を楽に終わらせることができるのか。酩酊した頭の中は、そうしたことでいっぱいでした。

 それと同時に、もし自分に立ち直る最後の希望があるとすればなんなのだろうかという思いが、頭のほんの片隅に浮かぶ時がありました。5年前の会社員時代の最後に、コーチ仲間から勧められて栃木で体験した「集中内観」がふと浮かびました。しかし自分は変われるという、前向きな希望を持っていたわけではまったくありません。腐り切った心境によっぽどの変化がない限り、2025年の終わりとともに沖縄の地の果て海の果てで人生を終わらせよう。

 福岡の街が華やかなクリスマスイルミネーションに彩られている中、ひとり12月15日午前の便で冬の沖縄に片道切符で旅立ちました。

内観での7日間

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沖縄内観研修所は、沖縄本島南部の太平洋をのぞむ地にある(沖縄県南城市)

そもそも内観とは何か

 内観という言葉自体を初めて聞く方もいらっしゃるかもしれません。内観をシンプルに言えば、読んで字のごとく自分自身の「内面を観ること」になるかと思います。

 私が内観を知ったのは5年ほど前で、その際に経験した栃木の施設でこんな説明がありました、「内観とは、普段見ないところを見ることです」ということです。三日月に例えていえば、光の当たる明るい部分ではなく、光の外れた部分を見つめることだといいます。月はほんらい球体なので、光が当たっていないところも「月」であることは変わりません。

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 しかし人はどうしても光の当たる一部分に目を向けます。それは私たちの心も同じで、日常生活で光を当てている部分は限られています。しかし私たちの心はふだん目を向けない影の部分もあります。普段は見えなかったり気付きにくかったりするものに目を向けて、自分自身の全体を捉え直すことが内観と言えるのかもしれません。

 そのやり方としては、たたみ半畳の空間に閉じこもり、外部からの情報を一切遮断して、ひたすら自分自身のことについて振り返ります。内観で特徴的なのは、最も身近な家族との関わりについて回想していくことです。母親、父親、兄妹などについて、生まれてから大体3年おきくらいの期間に区切って、年代順に丁寧にどのようなことがあったかを思い出し、調べていきます。

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畳半畳の空間に閉じこもり、自分自身のことについて振り返る(内観終了後に撮影)


 内観とは仏教の浄土真宗に伝わる「身調べ」という精神修行を基礎としていますが、宗教的なものではありません。実業家出身で、仏教の信仰も篤かった吉本伊信(1916ー1988)が宗教色を排して、自己の内面を探求できる方法として開発したものです。また、「こう生きるべきだ」とか「こうしろああしろ」といった道徳的なものでもありません。

 内観については、内観研修所以外にも医療機関や教育機関,矯正施設など各方面で導入されてきました。その効果についての論文も医療分野などからさまざまに出ており、学術分野の観点からも研究が進められています。

終了近くになっても「何も変わらない」

 内観でもう一つ特徴的なのは、思い返したことを伝える「面接」と呼ばれる時間があることです。面接といっても対話のやり取りがあるわけではなく、内観した人がその時間の中で思い出したことを語り、聞いている側は黙って聞くだけです。これを一日8回ほど繰り返します。以下に、私が体験した沖縄での1日の内観スケジュールを載せておきます。

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  私は男3人兄弟の次男として生まれ育ちました。母、父、3歳年上の兄、3歳年下の弟の順番に内観を進めていきました。手順に沿って、生まれてから3年おきに①してもらったこと②してお返ししたこと③迷惑をかけたことの3点について思い出していきます。

 しかし私は直近の3年間のことについては、どうしても思い出したくなく、考えることを避けていました。引きこもり期間中は、そのことを思い出すたびに、冷蔵庫に直行してアルコールを飲まずにはいられなかったからです。

 内観も終わりに近づいてきた6日目、ようやく母、父との直近3年間の関わりについて調べ始めました。はかり知れない迷惑をかけていました。しかし何か心境に大きな変化があったわけではありません。この気持ちのまま、福岡に帰ったところで、それまで1年以上にもわたって繰り返してきた怠惰の極みの生活に再び戻ることが、鮮明に想像できました。

 やはり冬の沖縄の地の果て、海の果てで消えるしかないのだろう。そう思いながら、6日目の夕方の時間を迎えました。

夕方に発した一言


  漆黒の心にわずかな変化を感じたのは、兄に対する直近3年間の内観についての面接の時でした。その面接の時、私は「兄は私を、ずっと家族の一員として見てくれていたことに気づきました」と話していました。考えていた言葉ではなく、自分の口から自然とこぼれるように出てきた一言でした。

 面接の方が私の部屋から出ていき、再び静かな1人の時間が始まると、その「家族の一員」という言葉が何か心に引っかかるように感じました。一人きりになった部屋の中で「家族の一員」と、静かに2、3度つぶやきました。

 腹の底に、それまで感じたことのないような温かいものの存在がわずかにあることに気づきました。その温かいものがだんだんと腹の底から湧き上がるようにして膨らんでくるように感じました。「あぁ、これだったんだ」。

眠れない夜


 その夜、私は就寝時間をはるかに過ぎた午前2時ごろまで眠ることができませんでした。部屋に薄明かりをつけて、手元のノートに「これからの私」について頭に浮かんだことを書きつけていました。1年以上続いた引きこもり期間中には、未来のことなんて全く考えることができませんでした。この人生はもう120%終わりだと思い、自分に未来があるとは到底思えませんでした。

 一通り書き終わった後、「私はもう一度生きていける」と命の底から安心感がわき、電池が切れたように眠りました。

「何かの一員」になれず落胆し続けた40年

 思い返せば、私の40年間は「何かの一員」になろうと、もがき続けてきた40年でした。特に、社会的に評価される何かの一員になりたいと思い、認められることを原動力に生きてきたように思います。

 北九州の田舎の中学で野球に没頭し、高校には野球推薦で地元の進学校に運よく合格しました。周りの友人は勉強ができる人ばかりです。私は何か一つでも負けないものを作りたいという気持ちから、勉強面では地理に没頭しました。

 地形のでき方を考えたり地名などを覚えたりするのが大好きで、当時192カ国あった国名について、首都名まですべて覚えました。アメリカの全50州の州都や中国の22の省や自治区の名称と位置もすべて暗記していました。今考えれば、ただ暗記が好きだっただけかもしれませんが、地理だけは学年トップクラスでした(ほかの教科はなんとも言えません)。

 そうした「地理オタク」だったため、大学では地理を学ぶことしか考えていませんでした。周りの友人のほとんどが国立大学志望でしたが、38人の理系クラスで私だけ、国語、英語、地理で受験できる東京の私立大一本で勝負しました。模試の判定も良かったのですが、全国から屈指の地理オタクが集まる学部には合格できず、たまたま引っかかった商学部に進みました。

 地理とは程遠い、簿記やマーケティングといった講義内容に、まったく興味が湧かず、部活も途中で辞めることとなり、当時なりにいろいろやったものの大学5年間は何一つ「これをやった」と胸を張れるものをもつことができませんでした。

 何かについての所属意識をもつことができず心が揺らぐ気持ちを抱え続けてきたのは、がんばったはずなのに手応えがなかったこの大学5年間が影響しているように思います。

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大学の授業に興味をもてず休学して海外をさまよった(22歳)

 大学卒業後、新聞記者になったのは3歳年上の兄の影響です。運よく業界の中でも有力な新聞社に入ることができましたが、記者になれればどこでも良いという考えでいました。特別、所属意識が強かったわけではなかったと思います。入社した会社もやはり優秀な方が多く、私は大学時代のコンプレックスもあり、負けないものを作りたいという思いから気象予報士の資格を6年かけて取るなどして自分の居場所を作ろうとしてきました。

 私はこれまで「周りから認められないといけない」「認められて始めて一員になれる」といった行動原理に基づき、40年間を過ごしてきたように思います。しかしがんばってきたはずなのに、そうした「一員になれた」という思いは持てず、落胆を繰り返してきたのが真実だと思います。

外側に求め続けてきたものは一番身近にあった

 私が内観で気づいたことは、40年間外側に向かって追い求め続けてきた「何かの一員になりたい」という思いは、実は生まれた40年前に一番身近なところで満たされていたということでした。紛れもなく私は「家族の一員」として生まれ育ちました。

 しかも「認められなければ一員になれない」という条件付きなのではなく、まったくの無条件で一員であるということに気づきました。空気以上に当たり前にあったものに、愚鈍な私は気づかず生きてきました。

 私が集中内観の7日間かけてやったことは「私が家族の一員であるという証拠集め」でした

 引きこもりニートだった期間、私は自らこの世を去ろうとしたことが何度かありました。それを察してか、ある晩秋の夕食時に目を疑うほどに顔を歪めてお茶碗を力なくちゃぶ台に落とし、うめき声のような悲鳴を声をあげて台所に走っていった母の姿。

 猫の手も借りたいほど忙しい農作業の合間に、片道1時間近くかかる精神病院に3週間に一度は見舞いに来てくれた父の姿。

 夏に東京から帰省して私の顔を見つめて「お前と会えてよかったよ」と語りかけてくれた兄の姿。

 「いい加減にしてくれ、これ以上父さん母さんを悲しませないでくれ」と激しい怒り声で電話を切った弟の姿。

 そのいずれもが「お前はかけがえのない家族の一員なんだ」と、父母兄弟がそれぞれ精一杯の姿を私に示してくれていました。

 それらはすべて紛れもなく、私が家族の一員であることを寸分の疑いの余地なく示す証拠でした。言葉を変えれば、家族が私に示してくれた精一杯の愛の姿でした。愚かな私はようやくその真実に気づくことができたのです。

学歴や職歴による「高級な人間」という思い上がり

 引きこもりが2年にわたるほど長引いたのは複数の理由が絡んでいましたが、最大のきっかけは「ようやく一員になれる」と思い、心の拠り所になっていた大学院を除籍になったことでした。

 独立してやりたいことを実現していける場として感じており、さらに前述のように大学時代に熱望していた志望学部に落ちたこともあって、本当に学びたいことが学べているという手応えに純粋な喜びを感じていました。

 それ以上に、そこに集まる人がとても魅力的でした。そうした仲間たちの一員になりたいと思い、私は気づけば従来から繰り返してきた「認められないと一員になれない」という心の癖を発動させていました。周りの方と一緒にやることに喜びを感じていましたが、だんだんと空回りするようになり、結果的にそうした仲間の輪から自ら離れてしまうことになり、自分に深く失望しました。

 また引きこもりが長引いたもう一つの要因として、自分自身に対する「すこし高級な人間」という自我意識もあったように思います。

 私はたまたま運が良かっただけなのにも関わらず、社会的に評価される学歴や職歴を密かな心の支えとして生き、自分もまたそうした目で人を見るようなところがありました。

 記者時代に、経営者や政治家、官僚の方々など、いわゆる「社会的リーダー」と呼ばれる方を取材させていただく機会が多くありました。そうした方々と接する中で、自分もまた「ちょっと上の方の人間だ」という思い上がった意識を持つようになったのは認めざるを得ないと思います。

なんの取り柄もない40歳のおっさんに

  しかし引きこもっていた2年間の自分の言動のどこを切り取ったとしても「高級な人間」とは、天上にある月と川底を泳ぐすっぽんほどにかけ離れています。自分が心の奥で支えとしていた自画像は、完璧に、木っ端微塵にぶっ壊れました。気付けばそこにいたのは、何の取り柄もない酔い潰れた40歳のおっさんでした

 愚かにもこの世から去ろうとしていた私を引き留めてくれたのは、紛れもなく家族の愛でした。それに気づかせてくれたのが内観でした。

 内観が終わった後に知ったのですが、私がたどった心の変化は、父母への恩愛を描いた芥川龍之介の短編物語「杜子春(とししゅん)」と重なるように思いました。放蕩息子で身勝手な杜子春がまぎれもなく私でした。

 杜子春が、両親の血肉が引き裂かれるのを見ていられずに声を上げ、それをきっかけに人間の素直な心を取り戻していったように、私自身も内観を通じて、両親や兄弟の気持ちを思い返すことができたおかげで、2年間まったく血の通っていなかった心に再びあたたかいものが蘇ってきたのです。

内観とコーチングの違い

 自分は新聞記者として12年、独立してからはコーチングの仕事に携わってきました。共通するのは「人の話を聞く」仕事ということです。引きこもっていた間は、自分の職業すら意識することはありませんでした。しかし、沖縄で内観をしていると、やはり「人を聞く(聴く)」とはどういうことなのかについて関心が向きました。
 
 内観とコーチングには共通点も多くあると思います。「自分自身を知る」ことが中核にあり、そのために「自分自身による気づき」を大切にしています。自分自身の内側を深めていくことは共通しています。

手彫りの内観、協働作業のコーチング

 ただ、内面を深めていくやり方が異なります。一般的にコーチングは「一対一の対話」を主なやり方としているのに対し、内観は「聞く存在」はいても、その2人の間に対話はほとんどありません。話す側(内観者)の一方通行のやり取りで、聞く側は聞くだけです。土を掘る作業で例えれば、内観はひたすら「手彫り」で掘り進めていく作業、コーチングは「協働作業」といった違いがあるように思います。

 しかし内観の「聞く存在」はただ聞くだけといえ、人間ではなくロボットでもいいのかと言われるとそうではありません。「誰が、どんなふうに聞いているのか」ということが、話し手にとって極めて大事なことのように感じました

 実際に沖縄の場合、聞き役は初代所長でご年配の女性の方と、40代で現所長の男性の方の2人がいました。おふたりともに真剣に聞いてくださる様子は共通していますが、やはり聞き手によって話す内容が少し異なってくることを感じました。

内観は「日本流のコーチング」

 内観分野の研究でも、どのような聞き手が内観者にとって望ましいのかという調査がされているそうです。内観が終わった後、所長とお話しする機会があり、現在の研究によれば「ひとりの人間が真剣に聞いている姿」が重要なのだそうです。今後、AIロボットがさらに進化し、普及して姿形ともに人間並みの振る舞いができたとして、人間がそのAIロボを真の聞き手として見なすようになるのか、その辺りはとても興味深いところだと思います。

 いずれにしても、内観とコーチングは、自分の内側を掘り進めて気づきを得ることは共通していると思います。手法は異なるとはいっても「自分自身を知り、より良い生き方を目指す」という方向性についてはコーチングも内観も全く同じです。現在日本で普及しつつあるコーチングは、欧米で発展してきたものではありますが、集中内観を3度体験した私自身の経験から言えば、内観は日本流のコーチングとも言えるのではと思います。

内観後に起きていること


 沖縄での内観からちょうど1ヶ月になろうとしています。内観前後で、私の人生は確実に変化しました。

 内観を終えた翌日、私は沖縄本島南部、糸満市にあるひめゆりの塔と平和祈念公園を巡りました。ひめゆりの塔の平和祈念資料館では戦火に命を落とした当時10代の女学生の肖像写真が壁一面に並べられていました。
 
 私は若くして戦没した方たちの顔を直視することができませんでした。自分があまりに恥ずかしい生き方をしていると感じたためです。自分がもう一度生き直すのであれば、今生きている令和という時代で一生懸命生きることが、無数の犠牲の上に成り立つ平和な時代を生きる一員として、せめてもの償いなのではないかと思いました。

年末に家族5人が20年ぶりに揃う

 そして帰路の切符を購入し、12月22日の夜、那覇空港から地元の北九州に帰りました。

 年末、父母が現在暮らしている大分県宇佐市安心院(あじむ)町の家に家族5人が集まりました。兄弟3人がそろい、家族5人が集うのは20年ぶりでした。兄の娘の姪っ子とも一緒に家族団らんの時間を過ごす中、私はどれだけ家族に恵まれているのだろうか思わずにはいられませんでした。

 家族という、空気以上に当たり前の存在のありがたさ、素晴らしさに気づかずにいました。家族全員、私のかけがえのない宝物です。

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2025年の年末に家族5人が20年ぶりにそろった(大分県宇佐市安心院町)

父が運営する「あべファーム」の力に

 私が7日間の集中内観で気付かされたのは、家族からいただいてきた限りない愛と同時に、自分自身は家族に対して何もしていないということでした。

 それだけでなく、私は家族を自分のために利用するような心すら持ち続けてきたことにも気付かされました。もう一度、生き直させていただけるのであれば、家族の喜びのために力を尽くしたい。心をもった人間として生まれてきた以上、そうしないわけにはいかないと思わざるを得ませんでした。

 まず自分ができることとして、私は父が運営する「あべファーム」の広報役をすることにしました。

 父は九州の企業を65歳で定年退職した後、生家のあるこの地に母とともに移り住み、荒れていた農地をほとんど独力で耕し、無農薬の野菜栽培を始めました。私はお手伝い程度で、玉ねぎの苗を植えたり水を巻いたりするのを手伝うことくらいは時々してきましたが、農作業の膨大な労力からみると、雀の涙にもなりません。

 農作業も手伝いながら、あべファームのことを世の中に少しずつ伝えていこうと思い立ちました。父と母は生まれは大分ですが40歳ごろまでは横浜や東京などで生活し、私自身も新聞社を退職する35歳までは東京を拠点に生活をしていました。都会生活の目線から見ると、田舎での生活は逆にとても魅力的に感じるところが少なくありません。

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父は定年退職後に農家に転身し、荒れていた畑をほとんど独力で耕し農場に変えていきました

 農家の暮らしも含めて伝えて、あべファームや安心院のことに関心をもっていただける方が少しでも増えたらと思っています。まだ計画段階ではありますが、実際に訪れていただける方をお招きできるよう民泊もできないか地域の方と話し合っているところです。

コーチングの仕事を再開

 またコーチングの仕事も再開しました。引きこもり期間中は、二度とこの仕事はできないと思っていました。しかし内観後に家族とのやりとりが再開する中で、私ができることは「人の話を聴くこと」だと思い直しました。私自身もまた、会社員時代に進路に迷っていた際にコーチングに救われた一人です。

 コーチの仲間たちは、この仕事に対してとても熱心な方が多く、それぞれに思いを持ち、工夫して協力しながら仕事をしています。私と同じように、所属していた会社を辞めてこの仕事にのぞんでいる方も少なくありません。リスペクトできるコーチの仲間も多く、コーチの一員としてももう一度活動していきたいという純粋な思いがあります。

 コーチングは人の行動を変えていく上で、非常に力があるものだと感じていますが、同時に場合によっては怖さもあるように思います。2年間引きこもっていた経験もまた、コーチという人の心に寄り添い、応援していく仕事をする上で力に変えていけたらと思っています。

新聞作り再開の勇気をくれたメッセージ

 また個人向けの新聞作りの仕事も再開することにしました。この仕事も、引きこもり期間中はもう二度とできないと思っていました。

 再開する勇気をくれたのは、一通のメッセージでした。

 今年の元日、私は1年ぶりにSNSを開きました。昨年は一度も開けませんでした。仲間や友人たちが前に進んでいる姿を見ることができなかったからです。そこには1年分の未読メッセージがたまっていました。

 その中の一通に、2度目の引きこもり直前に新聞を作らせていただいた京都在住の女性の方からのメッセージがありました。

 この方は、車いすや障がいを持っている方の旅に同行する「トラベルヘルパー」というお仕事をされています。お話を聞く中で、この仕事を始めるまでの経緯にもとても共感し、この仕事やご本人の思いについて伝えたいという気持ちで制作させていただきました。

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ご本人からメッセージをいただき、再開する勇気をいただきました(2024年12月に制作したトラベルヘルパーの坂本貴未さんの紙面)

 届いていたメッセージは、この新聞を見たことをきっかけに、トラベルヘルパー協会から連絡があり「勉強会の講師として体験談を話してほしい」という依頼があり、その後の仕事も広がっていると感謝を伝えてくださるものでした。私の心は静かにふるえました。

 私は35歳の時「フルエール(FULL YELL)」という屋号で独立しました。「心ふるえる方へ踏み出す人をめいっぱい応援したい」という気持ちからです。仕事への思いや人柄も合わせて伝える「フルエール新聞」と名付けた紙面制作は、独立当初から一番やりたいと思っていた仕事です。人のため、世の中のために生かされているのであれば、やはりもう一度やってみようという勇気が湧きました。

 大手新聞のように、有名な方や功成り名を上げた人を取り上げるのではありません。それぞれの持ち場で一隅を照らそうとしている方の力になれればという思いです。

最後に

 ここまでが39歳で引きこもりニートになった私のしょうもない記録です。ここまで興味を持って読んでくださった方がいらっしゃいましたら本当にありがたく思います。

 駄文を重ね、蛇足とは承知の上で、もうひとつだけ付け加えさせていただけるとすれば、内観中に出会った詩をご紹介させていただき、終わりにさせていただきたいと思います。

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内観中に出合った詩(森川りう「道のうた」)

 「道のうた」という題で、内観の創始者である吉本伊信氏の義母の森川りうさんの作品です。平易な言葉でつづられ、研修所のトイレに貼ってあるその詩を、私は用を足しながら毎日眺めていました。その中に、いまの私にとって胸に響く一節がありました。

 「右でもない 左でもない所に まことの道がある」

 人生には「どうしてもこれを成し遂げたい」と突っ走る時期も必要だと思います。しかし、思い描いた通りになることは、ほとんどないのが現実なのかもしれません。そこで落ち込むことなく、一喜一憂せず、得意淡然、失意泰然の心構えで進んでいくことが大事なのだろうと思います。感情の波の大きい人生を歩んできた私は、40歳になりようやくその大切さに気づきました。

 これからの人生は、芯をもちながらも、むやみにこだわることなく、流れを信じて生きていければと思っています。そして仕事を通じて「一隅を照らす」ような人生を歩んでいけたらと思います。

 冒頭にも申し上げた通り、人生でどうしようもない状況に追い込まれた時、八方塞がりで何もかも終わりだという気持ちになった時、そこまで追い詰められてはなくても、現状に違和感などを覚えている時、日本には内観という場があることを、ほんの記憶の片隅で覚えていてくださったのなら、これに勝る喜びはありません。

 最後に、沖縄内観研修所の皆さまに深く感謝申し上げます。最後までお読みいただきありがとうございました。

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沖縄内観で出会ってくださった皆様に深謝申し上げます
(2025年12月21日、内観終了後に撮影)

※追記
 現在7日間の集中内観ができる施設は全国で8か所程度あります。取り組む内容はどこでも同じですが、運営する方によって雰囲気が異なります。内観経験者の方々にお話をお聞きすると、内観を深める上での質に差が出てくることもあるといいます。集中内観にご興味ある方には、どこの施設がその方に合っているのかといった情報もお伝えできますのでご連絡いただければと思います。

ご参考リンク
沖縄内観研修所HP
全国の内観研修所
あべファーム安心院のインスタグラム
一度目の内観体験記(2021年2月19日)

参考にした論文と文献
竹元隆洋『内観の歴史と内観学会の誕生』2021年
高山博光『内観法と仏教』駒澤大学仏教学部論集、2006年
ヘンリー・キムジーハウス、CTIジャパン訳『コーチング・バイブル第4版』東洋経済新報社
芥川龍之介『杜子春』角川文庫

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